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2021年3月30日、名古屋地方裁判所は、幼稚園の「日照権」を巡る裁判(「名古屋教会幼稚園おひさま裁判」)で、画期的な判決をだしました。
日本では、日照権は法的に十分保護されず、また、子どもの権利条約も軽視、無視されてきました。しかし、この判決は、子どもの権利条約から出発し、「子どもの最善の利益」を判決の論理の柱とし、子どもの「あそぶ権利」や「発達の権利」にも目を配り、子どもたちの「適切な保育環境を享受する利益」の重要性もはっきり示しました。
その上で裁判所は、マンション業者に対して、名古屋教会幼稚園側に一定額の賠償金を支払うように命じました。
原告の名古屋教会幼稚園の求めが全て認められたわけではありませんが、その一部をみとめる一部勝訴の判決でした。
裁判の過程では、「あそぶ権利」の研究の第一人者の増山均先生や、現職の保育士さん達など、多くの助けを得ました。その結果、「あそび」がいかに子どもの発達にとって根源的で、そのためにいかに園庭が重要か、また、子どもの権利条約のいう「最善の利益」や「子どもの意見を聞く」ということはどういうことか、について、学問的な知見と豊かな保育実践とが結びついた説得力のある書面ができ、それが裁判所を説得していく力になったと思います。
  名古屋教会幼稚園のお母さん達や先生達が「我が子だけでなく全ての子どもたちのた めに」「子どもたちを大切にする社会に少しでもしていきたい」という思いで勝ち取っ たこの判決は、名古屋教会幼稚園のものだけでなく、すべての子どもたちに向けられた 判決です。
この判決は、この先、「子どもの権利条約」を社会の中で活かし、子どもたちの保育環境を向上させる運動のためにも、子どもたちを大切にする社会を作っていく運動のためにも、大事な判決として、学び、広げていきたいと思います。


# by kahajime | 2022-02-07 16:40 | 保育
名古屋地方裁判所民事第5部の名古屋教会幼稚園判決(2012年3月30日)の抜粋(良かったと思える部分のみですみません)を下記に引用します。

★「子どもは次世代を担う存在であり、その育成については保護者らだけでなく、社会全体が一定の役割を担うべきであり、公的関係にとどまらず、私人間おいても、子どもの権利に十分配慮することが求められると解される。」としています。
 ※ ただ、その後、「最善の利益」の判断を、従来の「受忍限度論」の枠組みで「総合考慮判断」をすることとしており、その点は問題があると原告弁護団は考えています。

原告園児らの被侵害利益等

児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)は、子どもの基本的な人権を国際的に保障するために定められた条約であり、すでに発行済みの条約であって、我が国も批准している。同条約3条1項には、「児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする」と規定されており、同趣旨に基づき、我が国も児童の最善の利益を考慮した施策を実施する責務を負っているといえる。
「そして、児童福祉法には「全て国民は、児童が…社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない」(2条)「前2条に規定するところは、児童の福祉を保証するための原理であり、この原理は、すべて児童に関する法令の施行にあたって、常に尊重されなければならない」(3条)と規定されており、児童には最善の利益が保障されなければならないといの趣旨は、本件において、日照阻害等が受忍限度を超えるか否かを判断するに際しても考慮すべきものであると解される」
「また、幼稚園は、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする施設であり(学校教育法22条)、学校教育法施行規則38条の規定を受けて定められた幼稚園教育要領(平成29年文部科学省告示第62号)には、幼児教育における注意事項として、心と体の健康は、相互に密接な関連があるものであることを踏まえ、十分に体を動かす気持ちよさを体験し、自ら体を動かそうとする意欲が育つようにすること、様々な遊びの中で、体を動かす楽しさを味わい、自分の体をを大切にしようとする気持ちが育つようにすること、自然の中で伸び伸びと体を動かして遊ぶことにより、体の諸機能の発達が促されることに留意し、昨今、屋内での遊びの環境が充実化し、戸外で遊ぶ機会が減少していることを受けて、幼児の興味や関心が戸外にも向くようにすることなどが明記されている(同要領第2章参照)。子どもらが戸外での十分な活動を行うことがその心身の健全な発達にとって重要であることは広く一般に認められているところであり、園児らが戸外である園庭において遊びを行うことも、上記幼稚園教育要領に適合するものである。そして、充実した戸外での遊びの環境を実現するには、戸外における適切な環境、園庭における適切な環境が整備・確保されることが必要不可欠である。この意味で、園児らは、第三者がみだりに侵害することは許されない法的利益として、適切な保育環境が整備された状況下での保育を享受する利益を有しているといえる。本件における園庭の日照阻害等が受忍限度を超えるか否かを判断するに際しても、原告園児らが上記利益を有することを考慮すべきものである。

★「中高層建築物紛争予防条例は、良好な近隣関係を保持し、健全な居住環境の保全及び形成に資することを目的として制定されており、同条例7条が、中高層建物を建築することによって教育施設等の日照に影響を与える場合には、事業者に教育施設等の設置者との「協議」が必要としているのは、教育施設等を生活の場とする幼児、児童等の心身の育成にとって日照が重要であり、教育施設等周辺での建築については紛争になりやすいことから、建築基準法をクリヤーするだけでなく、できる限りの配慮を事業者に求めるものであって、「協議」は単なる説明にとどまらず、当該施設の設置者らとの協議、話し合うことを必要とする規定であると解される。したがって、事業者は、建築業者目線で考えた日照阻害緩和策を単に説明するのではなく、子どもらに対する日照の確保の重要性に鑑み、高層建築物による児童らへの影響について、最も児童らの立場に立ってその影響を検討することができる教育施設の設置者らと話し合いをすることによって、より実効性のある対応策を「協議」することが求められている

★「被告プレサンスは、本件マンションを建築するに際し、本件マンションによって発生する日照が本件幼稚園における保育にどのような影響を与えるか十分に考慮した上でマンションを建築すべきであったところ、本件幼稚園への日照について一定の配慮をした社内検討案で、本件幼稚園の日照への配慮としては十分であると判断し、日照阻害が園児らに与える影響を園児らの立場に立って最も考えることのできる原告園長らの意見を聴くなどして、本件幼稚園における保育のカリキュラムに与える影響度合いなどの検討を十分にすることなく、本件マンションを建築することを決め、そのため、午後の「クラス活動」は、半年以上日程に日差しがない状況で実施せざるを得なくなり、何らの対応策も講じなければ園児らに受忍限度を超える保育環境の悪化が発生することが予想される事態となったため、原告教会は、本件幼稚園における日照を確保するための対応策として基本財産である牧師館を撤去・解体することを行わざるを得なかった」」

★「被告プレサンスは、本件幼稚園の日照について配慮すべき義務を十分に尽くすことを怠ったため、原告教会に、牧師館の解体・撤去の費用を負担させるという損害を被らせたものであるから」その費用と遅延損害金を支払え、という内容。


# by kahajime | 2021-05-19 14:55 | 保育
主張の抜粋の最後です(他にもたくさん、日照のことや風害のことなど主張しています)

 園庭の重要性

(1)子どものあそぶ権利を支える園庭の重要性

 以上でその都度述べてきたように、園庭は、まさにこの子どもたちの「あそび」の「舞台」、成長のドラマの「舞台」そのものである。

 園庭は、「名前のある遊び」を楽しむ場、であるだけでなく、四季折々、時々刻々変化する自然の中で、「名もないあそび」を発見、創造する場として不可欠な「舞台」なのである。
 近くの公園で代替できるか、という点であるが、たしかに、自然を感じる、という点では、近くの公園であっても、そこで子どもたちは遊び、また、名もなき「あそび」を発見、創造するであろう。

 しかし、園庭は、まさに、ホームグラウンドである。

 第三者の出入りもなく、あそびを発展させるための遊具、道具が備えられている。

 子どもたちの「あそび」は、その日限りで終わるものとは限らない。
  その日繰り広げられたあそびの「ドラマ」を、園庭であれば、翌日にも続けて発展させることができるのである。

  こうした「あそび」の連続性は、子どもの成長発達にとって極めて重要なことである。
 また、外の公園は、他の来園者の存在など、偶然性に支配され、「あそび」の連続性は確保しにくいという面もある。

 そして、何より「安心」して、「安全」を確保しながら「あそび」の機会を保障する、という点でも、園庭の役割は極めて重要である。
   
(2)「園庭」はあそぶ権利の実現の場であること

  子どもの「あそぶ権利」の保障のためには「園庭」が重要であるが、どのような「園庭」でもいいというわけではない。
  まず、園庭は、子どもの「あそぶ権利」を保障する、という観点から、安全や安心が保障されていることが大前提である。

 その上で、さらに、園庭は、子どもたちの心が解放される園庭、園庭に出たら、「ふわぁっ」と心が開いて、からだが動き出す園庭であることが必要である。
 園庭は、身も心も活性化させる(ワクワク、ドキドキできる)場であり、また、知的好奇心を高め、冒険心、挑戦心をくすぐる場であり、今日の楽しみを明日につなげることができる場であることが必要である。

 その意味で、砂場や遊具は、子どもたちの身も心も活性化させるために大切である。
 子どもの「あそび」を豊かにするために、できる限り自然を取り入れたり、子どもたちの想像力が豊かになるような様々な工夫がされた園庭が世の中には多数存在する。

  これに対し、例えば、園庭が極めて狭い空間であったり、日陰が多くなったり、子どもたちが圧迫感を感じるような場となってしまえば、子どもは心を開き、体を動かし、身も心も活性化する、ということにはなかなかなりにくい。
  したがって、子どもたちがあそぶ「舞台」である園庭の日照が制限され、子どもたちに圧迫感を加える園庭は、さらには、強いビル風で砂が舞ってしまうような園庭は、とても子どものあそぶ権利を十分保障する園庭とは言いがたい。

(3)「園庭」は「子どもの適切な保育環境を享受する権利」を保障する場でもあること

(ア)「子どもの適切な保育環境を享受する権利」と要件などについては、すでに準備書面(2)でも述べたところであるが、適切な保育環境を享受する権利は、子どもの発達の権利のために、また、子どものあそぶ権利の実現のためにも不可欠な権利である。

 これは憲法上の人権でもあり、また、改正児童福祉法においても、第1条で「適切に養育されること」が求められ、「心身の健やかな成長および発達」の権利が認めていることなどからすれば、「適切な保育環境を享受する権利」も児童福祉法上、保障されていると解すべきである。

 子どもたちは、すでに何度も見てきたように、内在的に、「あそぶ」力を持っており、発達する力を持っている。
 したがって、仮に、環境が悪くとも、たとえば、戦争中であろうとも、子どもたちはそのなかで「あそび」を見いだし、楽しむ力を持っている。

  たとえば、本件でも、建設中に他の幼稚園を借り、慣れないところで生活をしたりしても、また、幼稚園で遊んでいる最中に騒音や大きな振動があっても、また、目の前に覆いかぶってくるような圧迫感をいだく巨大な建造物があろうと、子どもたちは、その条件に適応し、「あそび」を見いだす力を持っている。

  しかし、だからといって、子どもたちにどんな環境でもいいと、劣悪な環境を強いることは許されない。子どもたちの「あそぶ」力、「発達」する力に、私たち大人が甘えることは許されない。
   子どもには、その発達の権利および、あそぶ権利の実現のために、適切な保育環境を享受する権利があり、大人には、これに積極的に答える義務がある。

 そして、子どもに対しては「最善の利益」の観点を持って向き合うべきであり、「保育環境が適切か否か」の判断においては、常に、子どもの「最善の利益」となる保育環境とは何か、子どもの「意見」「気持ち」に寄り添って、追求する視点が不可欠である。

 保育環境を後退させ、劣化させる事態ないし行為に対しては、原則として、子どもの適切な保育環境を享受する権利の侵害があり、子どもの発達の権利やあそぶ権利の侵害がなされているものと明確にとらえるべきである。


# by kahajime | 2021-05-19 14:45 | 保育
さらに続きです。

(3)「あそび」の本質について

さらに、上記の事例を前提に、あそびの本質とは何かについてさらに検討を進める。

 (ア)この実践例を通じて見えてくることは、子どもたちは、自分たちがしたい「あそび」を自ら見つけていく力を「それぞれ」持っている、ということが見えてくる。
  誰に言われるわけでもなく、目に映る園庭のなかの水たまりや砂などに触れながら、それぞれが、自由に、自発的に、名もなき「あそび」を発見し、作りだし、行動に移している。
 ここで保育者は、一言も「あそび」の指図をせず、見守っているだけである。
  あくまで、「あそび」を見いだし、作り出しているのは子どもたち自身である。
 人に言われて「遊んで」いるわけではない。この、自分の気持ちを大切に、自由に「あそんでいる」、それぞれの姿こそ、大切なのである。
 仮に、部屋の中で、椅子に座り、保育者の指示に従った「工作」などを集団でする、ということだけの毎日であったとすれば、子どもは外の世界に対する内発的な関心も、豊かな気持ちも、友だちとの共感も、想像力も培うことができないだろう。

 言われたとおりの仕事をこなす人間にはなれても、自分で豊かな人生を自ら作り出す力を培うことはできないだろう。

 人生の主役として、これからの人生を主体的に生きてゆく力を身につけることはできないだろう。

 この実践からは、「先生」が「物語」を作るのではなく、子どもみずからが「物語」を作り上げている姿と、保育者が、子どもたちの気持ちをしっかりつかもうとしながら、子どもの主体性を大切に、見守っている姿が見える。

  子どもたちは、この先の人生で、自分自身の「物語」を自らの力で作り上げ、その物語の主役として生きていく力を、今この瞬間にも培っているのだ、ということが見えてくる。

 園庭は、まさに、こどもたちが「主体的」に生きる「力」を培う舞台であり、かけがえのない自分の「人生」を自ら作り上げる「力」を培う「舞台」なのである。

 (イ)さらに、もう一つ注目すべきは、保育者の「視点」、「まなざし」である。

 B子さんとC子さんとが黒砂で型抜きをして遊んだ後、あっさり別々の遊びに向かってしまったのをみて、保育者(Yさん)は「正直がっかりした」と最初は述べている。
 しかし、すぐに「二人は型抜きを楽しんでいたのではなく、雨水を加えて変化していく黒砂の姿に引き込まれていたのではないか?私はままごとを遊び合うことが仲良しの姿と思い込んでいたのではないかと反省。二人とってとても短いあの瞬間こそ、心を通わせあった確かな時間だったのだと思います」と、子どもの気持ちに対する自分の「見方」をすぐに修正していく。

子どもにとってなにが「最善」か、子どもの権利条約が大事にする「最善の利益」が何か、について、第一に子どもの「気持ち」を探って考えていくことが必要だ、というのが、まさに子どもの権利条約の「意見表明権」の意味である。

 この保育者の「まなざし」こそ、子どもの権利条約が大切にする「最善の利益」であり、「子どもの意見表明権」を大切に受け止めるまなざしであり、子どもの権利条約の実践そのものであるいえる。

  子どもたちの「気持ち」を一番に、子どもの主体的な「あそび」を尊重し、子どもの発達を支えていく、というこの保育者の豊かな「まなざし」から、私たちは子どもの権利条約の本質を学びとることができる。
 


# by kahajime | 2021-05-19 14:42
続きです。

(2)「あそび」の重要性について

 「あそび」の重要性について理解を深めるために、すでに提出済みの、「保育のきほん 4・5歳児」(「ちいさいなかま」編集部『ちいさいなかま社』)の実践  例の一つ「(略)」を参考に考えていく。

 まず、上記の5つの視点を軸に、具体的に検討する。

 この実践例は、4歳児クラスの子どもたちが、前日に降った雨のおかげで、園庭は黒くて湿った砂がいっぱい、という中で繰り広げられた、子どもたちの「ドラマ」を切り取った報告である。

まず、①の生命機能の維持発展、という点について見てみる。

 Aくんの、おたまを使って水をペットボトルに入れる、という動作は、指先の機能の発達につながるという点で、生命機能の維持・発展に寄与している。
 Fくんのパンケーキ作りも、手指の技が必要であり、こうした「あそび」を通じて、子どもたちの手指の機能の発達につながっていく。
砂場などでのこうした「あそび」は、保育の分野においては、「手指活動」として、子どもの発達に不可欠な活動とされている。
  また、雨が降った後の水に触れ、冷たい、ということを体で感じ、水が濁ったり、透明になったり、という自然が作り出す科学的な体験にふれ、また、四季を体感していくことことで、五感の感覚も豊かになっていく。

 自然に触れる機会が不足すると、生命としての機能も発達せず、五感も乏しくなってしまい、人間としての機能が十分発達しない可能性がある。
「あそび」はまさに、人間としての生命機能の維持発展として不可欠な役割を果たしている。

次に、②心の発達について見てみる。

 キラキラ輝いた雨水を、みんなに見つからないように黙って汲んでいる密かなたくらみ、の時の、Aくんの姿からは、3歳児には見えなかった、4歳児ならでは、の集中力や、ハラハラドキドキ感など、心の豊かな発達が感じられる。
 キラキラ輝いた雨水をきれいと感じ、密かに企み、ハラハラドキドキする、という、いろいろな豊かな気持ちがAくんの中にあり、同時に、一つのことに集中する力が培われている。
こうした豊かな気持ちや、集中力は、Aくんの人生をきっと豊かなものにしていくだろう。

③の社会性についてである。

 B子さんとC子さんの、黒砂の「型抜き」の姿からは、この保育者が述べているように、、二人の「心を通わせあった確かな時間」が確かに見いだされる。「楽しい」ということを共感できる時間を積み重ねていくことは、人と関わり合う力を発達させていく。
 きれいな雨水を巡っての、Aくんと、それに気づいたGくんとのトラブル、そして、それに終止符を打ったHくん、の姿からは、子どもたち自身でトラブルを解決していく確かな力が見いだされる。

④の想像力についてである。

  D子さんとEくんは、水と砂で創り出す想像力で楽しい遊び、パーティーを生み出している。そこには、「見立て ○○のつもり」(泥水=チョコレートドリンク、雨水のしみた黒砂=チョコレートシロップ、黒砂=チョコレートご飯)という豊かな想像力が見いだされる。
  子どもたちのアイデアの素晴らしさと、楽しんでいく力には感嘆せずにはいられない。
  もちろん、想像力は子どもの発達によるし、個人差もある。
  一つの同じ「あそび」でも、イメージしている世界も違えば、感じ方も遊び方も変わってくることがある。
その場合、場合によっては保育者が「手立て」をし、手を差し伸べることで、子どもの想像力が膨らみ、楽しく遊んでいける、ということもしばしばある。
それがまた、子どもの「発達」へとつながっていくのである。

 園庭は、このように、子どもたちが自ら自由に「あそぶ」空間であると同時に、保育者が、時に子どもたちに必要な「手立て」をすることで、子どもたちのあそびの世界を広げ、発達を保障する場でもある。
  保育者は単に子どもたちを傍観しているというわけではなく、子どもたちの「気持ち」(意見表明権で言うところの「意見」)をつかみ、子どもの主体性を大切にしながら、時に必要な「手立て」をしている。
 そういった営みが、日々園庭で繰り広げられている、ということを私たちは理解しておく必要がある。

⑤の「アニマシオン」についてである。

 この報告全体からは、子どもたちそれぞれの姿から「面白い、楽しい」というワクワク感、意欲の高まりが伝わってくる。そこに一人一人の「魂の活性化」という豊かなドラマが生まれていることがわかる。
この「ワクワク感」こそが、「あそび」の最も大事な面である。
子どもたちは、一つ一つのちいさな「あそび」を通じて、子どもたちは「面白い」「楽しい」「心地よい」と心が動き、その瞬間、瞬間に、子どもたちの魂は「活性化」している。
  その魂の活性化(アニマシオン)の力こそが、子どもたちの心、体、人間関係を活気づけ、子どもたちの成長発達へと導いていくのである。
  保育士や教師に教わったり、あるいは言われたとおりの「遊び」をすることで必ずしも子どもが育つわけではなく、子ども自身が自ら作り出す「あそび」こそ、最もよく魂の活性化(アニマシオン)の機能を持っているのである。
 こういった主体的な「あそび」こそ、子どもの「あそぶ権利」の核心であり、子どもたちが発達をしていく上でまさに中心的で、不可欠な営みである。
 この実践例で報告された子どもたちの砂場での姿から、砂場にはそれぞれの子どもの成長のドラマがあることが分かる。
 子どもたちが、「与えられた遊び」だけでなく、「名もないあそび」を発見、創造しており、自分で発見し、作り出した自主的、主体的な「あそび」こそ、子どもの発達にとって、極めて重要なのである。

 園庭は、子どもが「あそぶ」「舞台」として、子どもが「発達」していく「舞台」として、不可欠な「舞台」なのである。


# by kahajime | 2021-05-19 14:39 | 保育