カテゴリ:憲法( 29 )

「必要最小限の自衛権の範囲には必要最小限の集団的自衛権も含まれる」というところで自民党が落ち着きそうだ、という話です。

しかし、これは、9条についての従来の内閣法制局・政府見解について、誤った理解を前提に議論していると言わざるを得ません。

もともと、9条の政府見解については研究し、さらにこの間、阪田雅裕さんや大森政輔さんなど、元内閣法制局長官と直接お話を伺ってきた立場から、9条に関するこれまでの政府見解についてまとめます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・我が国の最高法規である憲法9条は、武力の行使などを国際紛争を解決する手段としては永久に放棄し(第1項)、前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は保持せず、国の交戦権を認めない(第2項)旨規定し、前文と照らし合わせすと、一見(文理上は)非武装を宣言しているようにも読みとれる。

しかし、憲法は、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることまで禁じていないと解されるが、

・それは、あくまで外国の武力の行使によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという、急迫、不正の事態に対処し、

・国民のこれらの権利を守るためにやむを得ない措置として初めて容認され、

・その事態を排除するための必要最小限度の範囲に止まるべきものである。

この反面として、

・自国に対する直接の武力攻撃がないのに、

・他国に対する武力攻撃を実力で阻止すること

を本質的内容とする集団的自衛権の行使が憲法上認められないのは、必然的な帰結である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以上が9条に関するこれまでの政府見解です。

集団的自衛権については、そもそも自国に対する直接の武力行使がない以上、一部だろうが全部だろうが、憲法上は認められない、ということです。

「必要最小限ならOK」ということはありえません。

これを集団的自衛権を認めるというのであれば、認めるのが一部であろうと、憲法改正をすべきです。

「必要最小限にとどめたことで、大人の対応をした」などと評価しているマスコミの記者達が何人もいるようですが、中身を正しく理解しようともせず、「何となく必要最小限といっているので、イメージ的に抑制的なので良い」、いうことでは、ジャーナリストとしての資質を疑います。

もう少し取材対象について正確な理解を持った上で報道してほしいものです。
[PR]
by kahajime | 2014-04-03 14:42 | 憲法
2月に日本記者クラブで、集団的自衛権行使を認める、という明確な立場をかねてより取っている、安保法制懇の北岡伸一氏の講演がありました。

■擬人化が多い

北岡さんの話を伺っていると、議論の仕方が、都合が悪いところは一般論化したり、擬人化してごまかしている点が多いように思います。これは北岡さん達の主張の仕方で共通している点です。

何となく、ごまかされてしまう人もいるようですが、具体的にどのようなことを現実に想定しているのか、そこを今想定して議論する必要性がどれだけあるのか、ということを常に念頭におきながら、確認作業をするイメージで話を聞いていく必要があると思っています。

「友人が困っているのに黙ってみているのか」という擬人化や情緒的な議論は、わかりやすいですが、国家間の問題に安易に置き換えるべきものではありません。

■一点のみの議論の仕方
また、議論の仕方が、一点の軍事活動のみをピックアップする議論の仕方に終始していますが、軍事行動はそれまでの流れの上で行われるものですし、また、一瞬で終わるものでもありません。

例えば、朝鮮有事の際に、アメリカから要請があったとき支援する、ということをさらっと言ってしまいますが、そこで自衛隊が米船艦支援のために出ていくことは、参戦するということになりますから、日本本土も国際法上は「敵国」からの攻撃対象となり、「敵国」からの攻撃を強く誘発することにます。そういった点についてまで真剣に議論している形跡はありません。

講演の途中で、北岡さんは、阪田さんについて「安全保障政策をもっと勉強してくれ」と言っていますが、むしろ抽象的な勉強だけで現実の戦争についてのリアリティーを欠いているのは北岡さんの方ではないか、と思います。阪田さんと直接何度も、対談しましたが、北岡氏よりも阪田さんの方が現実の危険性を念頭に議論されていると思いました。

■「日本に重大な影響」の縛りに意味があるか
北岡氏は、「日本と親しい国が攻撃されて、その国は、ほおっておいたら日本に重大な影響が及ぶ場合」ということを、集団的自衛権の「縛り」のように主張されています。

石破さんも同じ主張をされていますが、結局「重大な影響が及ぶかどうかはその時の政治家の政治判断」と仰っていますから、現実的には、「重大な影響が及ぶ」という基準は、まったく縛りも基準もないことになる、という点が一つ大きな問題です。

北岡さんも仰っていますが、「同盟のジレンマ」があり、同盟国には、強い同盟国から見捨てられるのではないか、という「見捨てられの恐怖」と、その強い同盟国が戦争をしていくことに巻き込まれていく、という「巻き込まれの恐怖」の二つがあります。

イラク戦争の時にも、自衛隊派遣の際に国会で説明されたのが、「日米同盟のため」(もっと丁寧に言えば、ここでアメリカに協力をしておかなければ、北朝鮮有事や対中国との関係で問題が生じたときに、アメリカに助けてもらえない)ということでした。
まさに、「見捨てられの恐怖」によって、自衛隊のイラク派兵がなされ、アメリカの戦争に「巻き込まれた」のです。

集団的自衛権行使をすべきかどうか、という問題に直面したとき、「日本に重大な影響が及ぶかどうか」という制限があるといっても、その判断において、常に「アメリカを助けなければ、いざというとき助けてくれない」というお決まりの思考回路で、結局無制限に自衛隊を派遣していくことは目に見えています。

したがって、集団的自衛権行使について「日本に重大な影響が及ぶ」場合に限ると言っても、この基準は全く縛りにはなりません。

■集団的自衛権行使を認めてしまえば

ベトナム戦争などで、憲法9条があったおかげで、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる危険が回避できた、という憲法が果たしてきた役割自体は、北岡さんも一定認めているところです。

しかし、北岡さんは、この「巻き込まれの危険」は現在はないとしています。

しかし、イラク戦争でも、「見捨てられ」の恐怖に支配されながら、イラクへの自衛隊派遣なども行iい、現実に「巻き込まれた」事実は否定できません。
ただ、イラク戦争でも、憲法9条があったことで、かろうじて自衛隊が直接の軍事行動に巻き込まれていく「巻き込まれ」の危険をギリギリ回避することができました。

最近のシリア情勢なども鑑みると、いまなおアメリカの戦争に対する「巻き込まれの危険」は否定できません。

もし、安倍政権が、「解釈改憲」により、9条の中身を放棄し、集団的自衛権行使を認めてしまえば、アメリカの戦争に対する「巻き込まれの危険」を回避する術はなくなり、「見捨てられの恐怖」に支配される中で、際限なくアメリカの軍事戦略に日本の自衛隊が組み込まれていくことにもなりかねません。

■イラク戦争時に、集団的自衛権行使が可能だったら
10年前のイラク戦争では、アメリカはイラクへの「先制自衛権行使」を根拠としたとされ、イギリスはアメリカとの「集団的自衛権行使」を根拠としたと解されています。
 そうであれば、10年前に、仮に9条の「解釈改憲」を行って「集団的自衛権行使」が可能だとしてしまっていたら、日本の自衛隊はイギリス並みの派遣となった可能性は十分にあります。
イギリス兵はイラクで179名が命を落としています。日本の自衛隊も、戦争の前線に送り込まれ、多くのイラクの市民の命を奪い、また、自衛隊員の多くも命を奪われた可能性は否定できません。

北岡さんは、「地球の裏側に自衛隊を送ることがない」かのように言ってもいますが、イラク戦争の時にはイラクにまで自衛隊を送り出しているのですから、説得力はありません。

■安保法制懇の議論の非現実さ
また、安保法制墾の4類型なども、すべて非現実的な問題です。すでに4類型は議論として破綻してます。
結局、集団的自衛権行使の本質の問題ではない部分をあえてピックアップして議論をして、一部でも「必要だ」としながら、結局は集団的自衛権そのものを無制限に認める道を作ろうとしています。

例えば、北岡さん自身が「領空は1万メートル、それより上は宇宙です」と言い、領空より上を通ってアメリカ本土に向かう弾道ミサイルを迎撃する、ということなどを主張されていますが、そもそも、北朝鮮からアメリカ本土に弾道ミサイルを発射した場合、日本の上空は通りませんし、また、領空1万メートル以上の高さを高速で飛んでいく断層ミサイルを迎撃できる技術が開発される見通しはありません。

今、現実に議論する実益のない議論なのです。

■政府見解についての理解は
さらに、憲法解釈を変えられる、という点についての北岡さんの御主張は、少なくとも内閣法制局の見解について正しく理解されていないのではないかと思わざるを得ません。

自衛権が「必要最小限」の範囲で認められ、その「幅」が時代によって変わりうる、というのは明らかに誤りです。安倍首相も石破氏も同じ主張をしていますが、従来の政府見解を正しく理解していません。

この点は、阪田さんとの本「法の番人 内閣法制局の矜恃」の139頁以降にかなり詳しく書かせていただいています。

内閣法制局の答弁の変遷などについても、おそらく、北岡さんは分析されたことはないのではないでしょうか。理解した上でのご発言であれば、あのような発言にはならないと思います。

全体的に、北岡さんも、他の安保法制懇のメンバーも、同じような考えの人達が、それぞれ自分の中で完結した抽象的なストーリーを仲間内で話し合って盛り上がっているだけのように見えてなりません。

日米安保の下、巻き込まき込まれの危険と、見捨てられの恐怖に常にさらされている日本の特殊性があるからこそ、日本の主権を守るために、「集団的自衛権行使を認めない」という憲法9条のカードを自ら放棄するようなことをせず、しっかりカードとして持ち続けておくべきではないでしょうか。
[PR]
by kahajime | 2014-04-03 01:17 | 憲法
NHKなどでも報道されましたが、昨日、2月20日、内閣法制局長官を務めた阪田雅裕さんが国会内で講演し、安倍首相が強い意欲を示している憲法解釈の見直しによる集団的自衛権の行使容認について、「不当である」と批判しました。

開場には多くの国会議員を含め、合計200人あまりの参加があったそうです。

阪田さんは、「政府の、憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権の行使をできるようにする、というのは不当である」と指摘した、と報じられています。

その理由について、政府による憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使が認められるならば、「戦争の放棄などを記した憲法9条の意味がなくなる」「憲法改正は国民投票が必要だが、政府による憲法解釈の変更では国民の出番もない」ことなどをあげた、とのことです。

阪田さんは、小泉政権の後半に2004年から2年間、「法の番人」とも呼ばれる内閣法制局長官を務め、小泉首相が退陣されると同時に長官職を辞任されています。

ちょうど、その阪田さんの御著書「法の番人 内閣法制局の矜持」(大月書店)が2月20日、出版されました。

わたしが僭越ながら対談相手をつとめさせていただき、何度か対談を重ねて作らせていただきました。

護憲改憲の立場を越えて、安倍政権が進める「立憲主義の破壊」に抗うために、大きな力となる本だと思います。

ぜひお求めください。
[PR]
by kahajime | 2014-02-21 16:57 | 憲法
岩波の「世界」12月号の特集は、「暴走する安全保障政策」。
特集の冒頭は、私の拙稿「国家安全保障基本法は何を狙うか」です。

「国家安全保障基本法」は、集団的自衛権行使を可能とするばかりか、無制限に自衛隊が海外で武力行使(戦争)を行えることに道を開くものです。まさに、「平和憲法破壊基本法」とも言うべき、極めて深刻な法律です。

自民党は、「秘密保護法」のあと、まさに「壊憲」の「真打ち」である「国家安全保障基本法」の制定を狙っています。

私の論文では、自民党の「国家安全保障基本法案概要」の内容について簡潔に言及しています。

また、自民党は、「一変した最近の国際情勢を踏まえて、平成18年から党内で国家安全保障基本法の議論をしてきた」と言っています。
しかし、実は、今からおよそ20年も前の1994年に、防衛庁が内部でこっそり「国家安全保障基本法試案」を作っていたこと、自民党が今回、自分達で作ったと胸を張っている「国家安全保障基本法概要」は、この20年前の防衛庁試案をかなりそのまま「転用」いることを指摘し、自民党が今回作ろうとしているものは、決して「新しい」ものではなく、20年も前の防衛庁が「生みの親」である、という、あまり知られていなかった事実にも言及しています。

このタイミングで、素早く「安全保障政策」についての特集を組んで戴き、その特集のトップに「国家安全保障基本法」を持ってきて下さった岩波さんには感謝しています。

市民の皆さんに少しでも力になれると思って書かせていただきました。

書店で、「世界」12月号、お求め戴ければ幸いです。
[PR]
by kahajime | 2013-11-19 02:04 | 憲法
 2003年、イラク戦争はアメリカによる一方的な攻撃で始まった。日本は世界に先駆けてアメリを支持し、イラク特措法を作り、2004年から本格的に自衛隊をイラクに派兵した。
 国は、イラク派兵の実態について、「人道支援」という宣伝をするばかりで、その実態を明らかにするように求める情報公開請求に対しては、「墨塗り」の書面を出しつづけ、イラク派兵の実態を国民に隠蔽し、欺き続けた。

e0207470_18193093.jpg


その中で、我々イラク派兵差し止め訴訟弁護団は、独自の情報収集をした。また、中日新聞・東京新聞など、一部のジャーナリストが精力的にイラクでの航空自衛隊の活動の実態を取材をし、報道を続けた。そういった積み重ねの上で、2006年7月に陸上自衛隊が撤退したと同時にこっそりと始まった、航空自衛隊によるバグダッドへの輸送活動の実態が、武装米兵の輸送であることが分かった。
 そして、バグダッドが当時、激しい戦闘地域であり、その最前線に武装した米兵を多数送り込むことが、米軍との「武力行使一体化」にあたる、として、2008年4月の名古屋高裁は憲法9条1項違反の判決をおこなった。

 仮に、「特定秘密保護法」ができていれば、我々の情報収集も、また、中日新聞・東京新聞の取材活動も、処罰の対象となりかねなかったのではないだろうか。イラク派兵の実態は隠蔽されたままで、当然違憲判決なども出ることがなかったであろう。
 2008年4月に違憲判決があり、当初、政府はこの判決を軽視する発言を繰り返していたが、2008年の年末には、イラクから自衛隊を完全撤退させた。
 憲法9条が力を発揮したと言って良い。

 名古屋高裁が憲法9条違反の判決を示したのは、原告側がイラクでの自衛隊の活動を詳細に証拠として提出したからである。その証拠は、我々原告弁護団がイラク隣国ヨルダンへの調査を行うなどによって独自に入手したものもあれば、中日新聞・東京新聞の優れた記者達が地道な取材活動によって入手したものもある。
 こうした情報は、「外交・防衛」に当たるため、特定秘密に指定され、入手できなくなる。そうであれば、憲法違反の事実が海外で積み重ねられたとしても、情報入手ができない以上、憲法9条を活かす訴訟自体が不可能となり、憲法9条は空文化してしまう。

 さらに、違憲判決から1年あまり経った2009年10月、国はそれまでほぼ全面的に墨塗りに形でしか「開示」してこなかった航空自衛隊の活動実績について、全面的に開示をしてきた。


e0207470_18202528.jpg


 その「全面開示情報」から、航空自衛隊の輸送活動が、人道支援でも何でもなく、武装した米兵の輸送が多数に上っていたことが明らかとなった。
 仮に特定秘密保護法があり、「特定秘密」に指定されていたとすれば、こうした情報が開示されることはなかったであろう。
 
 安倍政権は、来年には、国家安全保障基本法まで制定を狙っている。
 国家安全保障基本法は、集団的自衛権のみならず、海外での武力行使を全面的に解禁していくことにつながる法案であり、憲法9条を完全に空文化させしまう法案である。同法案では国民に対する「防衛協力努力義務」も課されれ、この基本法の下で作られて行くであろう様々な法律によって、戦争に反対すること自体が処罰対象となりかねない。

 国家安全保障基本法の中には、秘密保護法制の制定と、日本版NSCの創設自体が明記されており、この国家安全保障基本法と、特定秘密保護法と、日本版NSC法とは、一体となって、日本を軍事国家に作り上げる法体系の基本として機能していくことが予定されている。

 国家安全保障基本法は、まさに「平和憲法破壊基本法」である。
 明文改憲手続きを経ることなく、憲法9条に規範を根こそぎ否定し、軍事中心の新たな国家体制を作り上げるのが、国家安全保障基本法であり、その大事な骨格となるのが、特定秘密保護法である。
 このようなやり方が認められては、もはや我が国は立憲主義国家とは言えない。

 しかし、現実には、内閣法制局長官のクビをすげ替え、集団的自衛権を容認する人物を「長官」として送り込んだ。

 内閣法制局を握った安倍内閣は、一見「敵なし」である。
 国家安全保障基本法も、来年、制定に向けて大きく動くであろう。
 特定秘密保護法は、戦争国家への大きな第一歩である。

 特定秘密保護法が出来れば、自衛隊が海外に派兵されても、もはやその活動実態について調査することは不可能になり、活動実態についての情報公開について国は応ずることもないだろう。
 海外で自衛隊が憲法9条違反の行為をしていたとしても、その実態を私達が直接情報収集をしていくことは極めて困難になり、憲法9条違反の活動は国民に隠さてしまうだろう。 そして、国家安全保障基本法の下、9条違反の事実が次々積み重ねられ、その「事実」に合う形で「法律」が次々作られ、憲法9条は、明文改憲手続きを経ることなく、あってもなくても良い規定になってしまう。

 特定秘密保護法は、単に「知る権利」云々、という問題にとどまらない。私達が今直面しているのは、「平和憲法」の危機であると同時に、「立憲主義」の危機である。

 立憲主義を破壊する一連の「手口」に対して、大きく連帯していくべき時である。
 幸い、広汎な連帯を行う大きな素地が出来つつある。一見敵なしの安倍政権であるが、私たちも決して無力ではない。全力で戦争国家への「手口」を止めていこう。
 
 
   
[PR]
by kahajime | 2013-11-10 17:53 | 憲法
第3 内閣法制局の憲法解釈権に対する批判
 1 内閣法制局に対する様々な批判
 内閣法制局の憲法解釈に対しては、様々な批判がされてきた。
 とくに、内閣法制局の憲法解釈を否定しようとする立場から、内閣法制局の憲法解釈権自体を問題視する発言が強く出されている。
 そこで、内閣法制局の憲法解釈権に対する批判的発言について、個別に検証を試みたい。

 2 「三権分立に反する」という批判
 (1)1つは、「憲法に対する最終的な判断権者は最高裁判所であり、行政機関の1つに過ぎない内閣法制局の憲法判断があたかも国の唯一の憲法判断のようにされているのは三権分立の観点からおかしい」という批判である。
 (2)確かに、憲法に対する最終的な判断権者は最高裁判所である。
 しかし、まず、内閣法制局の憲法解釈は、あくまで政治的意見であって法的拘束力を有しているわけではなく、その意味で、最高裁判所の最終的な憲法解釈権を何ら侵害しているものではない。現実に内閣法制局が審査した法令について、最高裁判所が法令違憲と判断したことはほとんどないが、それはあくまで結果論であり、内閣法制局が最高裁判所の憲法解釈権を侵害しているわけではない。
 (3)平成10年4月22日の衆議院行革特別委員会において、大森内閣法制局長官(当時)は、次のように答えている。

 「言うまでもなく、憲法解釈、これは最終的な憲法解釈権と申しますのは、憲法81条によりまして最高裁判所に帰属している。そのような意味において私どもは憲法解釈権を有しているというものではないことは、私どもも重々承知しているわけでございます。
 他方、政府内部におきましては、この憲法解釈、これはいろいろな立場で法律の運用にあたる者は、その前提として憲法問題が介在している場合には、憲法解釈をする必要があるわけです。
 したがいまして、第一時的には、この法律の運用にあたる各省庁におきましても憲法解釈を行っているわけでございますが、その憲法解釈について、各省においてはいろいろ疑義があるとか、あるいは各省庁間で解釈に差があるという場合には、現行の制度におきましては、法制局に持ち込まれまして、法制局における議論、検討を通じて、少なくとも政府内部においてはその方向で解釈が統一されていくということになっているわけでございます。」


 (4)大森氏が述べるように、内閣法制局は、法律を運用するにあたって直面する憲法解釈について、法の運用の一体性の観点から、政府内部で解釈の統一を図っていく、という役割を果たしているにすぎず、内閣法制局が、何ら最高裁の最終的な憲法解釈権を侵害しているわけではない。
 したがって、三権分立に反する、という批判は当たらないと考える。

 3 「官僚の権限の強大化を生んでいる」という批判
 (1)これと同じような批判として、次のようなものがある。
 「内閣法制局こそ、第一次違憲審査所なのである。こうして日本の官僚は司法の役割も含めて3権をほぼ手中に収めたのである。これが三権のなかで官僚が突出した最大の理由である」(五十嵐敬喜・小川明雄(1995年)「議会」岩波書店)などという批判がある。
 これは、「官僚機構が3権を実質独占している」という点が重視されており、官僚批判にウェートが置かれており、官僚批判の1つとも捉えることが出来る。

 (2)しかし、かかる批判は、「官僚の権限が強大だ」という批判ありきの傾向が強い。
 また、そもそも行政機構を「官僚」という形で大きく捉えすぎており、内閣法制局の機能について十分目を向けていない。
 内閣法制局は、上述したとおり、行政内部から「権力を憲法が縛る」という立憲主義を支える重要な役割を果たしており、憲法を超える法律が作られ、また、憲法違反の国家行為が行われないように、他の省庁を牽制する役割を果たしている。
 その意味では、「憲法の枠の中に押し込める」という意味で、むしろ官僚の力を限定させる機能を果たしているのであり、内閣法制局の存在が「官僚の権力拡大」をもたらしている、という批判はあたらない。

 4 「僭越」「違憲」「硬直的」等の批判
(1)また、「内閣法制局が内閣の憲法解釈を縛るなど僭越だ」(小沢一郎)、ひいては「法制局の役人の持つ権限こそが、まさに違憲」(櫻井よしこ)との批判まである。
 さらに、「硬直的」であるなどという批判もある。
(2)内閣法制局は、このような批判に常にさらされてきた。こういった批判に対しては、たとえば、平成13年6月6日の参議院憲法調査会において、坂田内閣法制局第一部長は次のように述べている。

  「内閣法制局が憲法解釈について内閣その他に意見を述べ、また国会において内閣の憲法解釈について求めに応じてご説明申し上げているというのは、このように内閣としての憲法解釈の統一を図り、行政府が憲法尊重擁護義務というのを間違いなく果たしていくことが出来るようにという観点からのものであるということをご理解いただきたいと思います」 

 また、元内閣法制局長官の高辻正巳氏は、「時の法令」(大蔵省印刷局・1972年、34頁~)において、次のように述べている。

 「内閣法制局の使命は、内閣が法律的な過誤をおかすことなく、その施策を円満に遂行することができるようにする、というその一点にある。そうである以上、同局の法律上の意見の開陳は、法律的良心により是なりと信ずるところにしたがってすべきであって、時の内閣の政策的意図に盲従し、何が政府にとって好都合であるかという利害の見地に立ってその場をしのぐというような無節操な態度をすべきではない。そうであってこそ、内閣法制局に対する内閣の信任の基礎があり、その意見の権威が保たれるというものであろう。」
  
  

 さらに、
 「法解釈は客観的に一義的に正しく確定されるべきもので、行政府がこれをみだりに変更することなどありえない」(1975年2月7日の衆議院予算委員会における吉国一郎内閣法制局長官)。

(3)上記のいずれの発言からも、内閣法制局は、「立憲主義の枠の中で、きっちりと行政権行使を行っていく」という緊張感を持っていることがわかる。「憲法解釈は一義的に正しく確定されるもの」とあえて述べるのも、憲法解釈の幅があることを原則としては、立憲主義の縛りが利かなくなるからであると思われる。
 また、政府が変わるたびに憲法解釈が変わるようでは、憲法が権力を縛るという立憲主義が著しく後退することは明らかである。さらに、憲法を頂点とする法体系全体の整合性も図れなくなり、法治国家としての基礎が崩されかねない。
 したがって、立憲主義の観点や法治国家としての法体系の整合性の確保の必要性からすれば、内閣法制局の上記各発言は至極当然のことであるといえる。
 仮に、「内閣法制局は僭越だ」とか、「硬直的だ」などと権力を握っている政治家が感ずるとすれば、それは、憲法による権力の縛りが、内閣法制局を通してしっかりと機能している証拠であり、むしろ望ましいことであると言える。
   
第4 従来の内閣法制局の「解釈」を否定することの問題点
 1 集団的自衛権についての内閣法制局の憲法解釈
 内閣法制局は、憲法九条は集団的自衛権の行使を認めていないとの解釈を一貫して取っている。
 すなわち、内閣法制局は、「憲法が容認するものは、その国土を守るための最小限度の行為だ。したがって、国土を守るというためには、集団的自衛の行動というふうなものは当然許しておるところではない」(1972年9月14日参議院決算委員会における吉国一郎内閣法制局長官答弁)などとし、憲法九条は集団的自衛権の行使を認めていない、という憲法解釈を一貫して取ってきた。

 2 国家安全保障基本法について
 これに対して、自民党が2012年7月に党内の機関決定を経た「国家安全保障基本法」は、10条において、「我が国、あるいは我が国と密接な関係にある他国に対する、外部からの武力攻撃が発生した事態である」ときに「自衛権行使」可能としており、集団的自衛権行使を正面から認める内容となっている。
 その他、8条2項で、「自衛隊は、国際の法規及び確立された国際慣例に則り、厳格な文民統制の下に行動する」とされており、憲法が禁止する交戦権を容認するとも読める。
 石破茂氏は、国家安全保障基本法の制定について、評論家の宇野常寛氏との対談本「こんな日本をつくりたい」(太田出版/2012年9月発行)で、次のように述べている。

 「憲法は改正しなければならないと私は言っているわけですが、しかし、憲法が改正されるまで、集団的自衛権は行使できない、というままで放置しておいて良いとも思えません。これまでも自衛隊の運用や集団的自衛権については、すべて政治のニーズで解釈をしてきました。状況が変われば政治判断も変わる。判断が変われば解釈も変わる。これは当たり前のことです。」 
 「ですから、今年(2012年)自民党は、『集団的自衛権の行使を可能とする』ことを盛り込んだ、『国家安全保障基本法案』の概要を党として機関決定したわけです。」
 「『内閣法制局の打ち立てた憲法解釈は、内閣が替わったからと言って変更できるものではない』というのが法制局の立場ですが、だからこそ内閣提出法案ではなく、議員立法でこれを乗り越えるべきだと思います。」
 
  
 以上のように、自民党は、国家安全保障基本法について、内閣法制局の事前審査を回避し、議員立法で制定した上で、内閣法制局の憲法解釈を否定するやりかたをこの1年の間、模索してきた。
 
 さらに、最近、安倍政権は、議員立法という「迂遠」な道を経ることなく、内閣法制局長官を交代させ、内閣法制局の見解自体を直接変えさせようとしている。
 内閣法制局長官を変え、従来の9条に関する内閣法制局の見解を根本的に変えさせ、その上で、集団的自衛権行使を認める国家安全保障基本法を内閣法制局を通じて国会に提出し、与党の数の力で法案を可決しようとしている。
 
 このようなことが果たして許されるのかについて、これまで見てきた内閣法制局の機能から、以下検討する。

3 内閣法制局の従来の解釈を否定する内閣による「解釈変更」
(1)法体系の整合性が崩れる危険性
 内閣法制局の憲法解釈は、緻密な論理の積み重ねであり、その上に事実が積み重なって、憲法を頂点とする我が国の法体系全体の整合性がとれてきた。
 しかし、内閣法制局のこれまでの憲法解釈を正面から否定する「解釈」をということは、内閣法制局による憲法解釈の論理の積み重ねを否定するものであり、憲法を頂点とする法体系全体の整合性を崩す可能性がある。

(2)「法治国家の要」の否定
 大森内閣法制局長官は、既述のように、「法律問題に関し意見を述べることを所掌事務として設置法に明記されていることに照らし考えますと、法制局の意見は、行政部あるいは政府部内においては専門的意見として最大限尊重されるものであることが制度上予定」(記述、大森氏答弁)されていると述べている。
 しかし、あえて内閣法制局の憲法解釈を否定する「解釈」を、首相の意を汲んだ新たな内閣法制局長官が主導で行うということは、「内閣法制局の意見を最大限尊重する」という現行制度を否定することになる。
 そもそも、前述したとおり、内閣法制局は、明治維新後、内閣制度が出来る以前から存在し、政府の国務の統一を確保するための重要な補助機関として、「法治国家の要」を担う役割を果たしてきた。
   
 現在も、「憲法を頂点とする法秩序の維持」を図る、ということが内閣法制局の使命であるところ、内閣法制局長官を変えることだけで、これまでの内閣法制局の解釈を変えることを許容すれば、内閣法制局による「憲法を頂点とする法秩序の維持」を図るという機能を否定しかねない。
 それは、明治維新後、日本が近代国家となって以降脈々と続いてきた、「法治国家の要」としての内閣法制局を否定することに等しい。

(3)政府の権威の失墜
  さらに、大森内閣法制局長官が述べるように、内閣法制局が、憲法解釈の変更に消極的な理由は、「政府がその政策のために従来の憲法解釈を基本的に変更するということは、政府の憲法解釈の権威を著しく失墜させますし、ひいては内閣自体に対する国民の信頼を著しく損なうおそれもある」という点にある。
 つまり、内閣法制局の憲法解釈の否定は、それまで積み重ねてきた行政府の憲法解釈を否定することであり、内閣による憲法解釈の権威を著しく失墜させ、それがひいては、内閣自身の権威と国民からの信頼を失うことにつながる、としている。
 内閣が、過去の内閣の憲法解釈から明らかに逸脱する憲法解釈を新たに取り、憲法解釈の「変更」を行う、ということは、従来の内閣法制局の見解から照らして違憲の見解を取る、ということを意味する。
 それは、内閣法制局による憲法解釈の積み重ねを否定することを意味するから、「政府の憲法解釈の権威自体を著しく失墜させる」という大森氏の懸念は的を射ている。
 また、政府自身が従来の「憲法」の枠を超える、ということは、「権力は憲法に拘束される」という立憲主義を否定するものとも言える。立憲主義を否定する内閣や与党は、ひいては国民からの信頼を失うことになろうという懸念もまさに的を射たものと言える。
 これまで積み重ねてきた内閣法制局の憲法解釈を明らかに逸脱する憲法解釈を政府が取る目的で、内閣法制局長官を交代させ、これまで許されなかった「憲法解釈」を行うということがあれば、大森氏が指摘するように、その結果、「政府の憲法解釈の権威を著しく失墜させ、内閣自体に対する国民の信頼を著しく損なう」ことになりかねない。

(4)立憲主義の否定
内閣法制局は、近代日本が歩み始めた明治維新直後から存在し、「法治国家の要」としての役割を担い、戦後、憲法を頂点とする法体系の整合性を確保し続けてきた。
同時に、戦後、立憲主義を行政府の内部から支えてきた。
とりわけ、裁判所が付随的違憲審査制を取り、統治行為論などをもって憲法判断を極力回避する司法消極主義を取ってきた中で、実質的に立憲主義を支えてきた内閣法制局の役割は極めて大きいものがある。
 
 既述のとおり、昭和54年12月11日の衆議院法務委員会において、味村内閣法制局第一部長が「憲法に反する政治を行うことは許されない」「私ども内閣法制局といたしましては、法律上の意見を内閣に申し上げるという立場から、違憲なことが行われることが絶対にないように、細心の注意を払ってご意見を申し上げておる」としており、こうした内閣法制局の姿勢が、我が国の近代立憲民主主義国家としての信頼を内外において高めてきた、といえる。
  この内閣法制局の憲法解釈を否定するために、首相が自らの意を汲む内閣法制局長官に交代させ、これまでの憲法解釈を安易に変更するようなことがあれば、憲法の権威と、憲法に基づく権力行使の正当性自体が失墜しかねず、我が国の立憲主義を否定することにつながりかねない。

 (5)小結
  以上のように首相が自らの意を汲む内閣法制局長官に交代させ、これまでの憲法解釈を安易に変更するようなことがあれば、法治国家の要として機能し、また、立憲主義を行政府の内部から支えてきた内閣法制局自体を否定するもので有り、その結果、憲法を頂点とする法体系の整合性が図れなくなり、また、立憲主義を否定しかねず、ひいては政府の権威や信頼を失う危険性があるなどの問題があると考える。

 
第5 結論
 内閣法制局の憲法解釈を否定するために、あえて首相が自らの意を汲む内閣法制局長官に交代させ、これまでの憲法解釈を安易に変更するようなことは、「憲法の枠の中で国家権力が行使される」という近代立憲主義を否定しかねない重大な問題であるということが認識される必要がある。

 内閣法制局も、憲法9条の価値を守ろうとして憲法解釈を守ろうとしているわけではない。
まさに、憲法を頂点とする法体系の整合性の確保と、立憲主義の実体的保障のために、内閣法制局の職責を全うしようとしているだけである。

首相が自らの意を汲む内閣法制局長官に交代させ、これまでの憲法解釈を安易に変更するようなことがあれば、「法治国家の要」としての内閣法制局を否定し、さらには我が国の近代立憲主義を否定することになりかねない。
 これは、考えようによっては、大げさかもしれないが、内閣法制局が出来た明治維新直後よりも日本は後退する、ということを意味するとも言える。
 立憲民主主義を本当に自分のものにするのか、あるいは近代立憲民主主義を放棄してしまうのか、我が国は大事な岐路に立たされているのではないだろうか。

    
【参考文献】

   ・「立法学講義(補遺)」大森政輔・鎌田薫編著
   ・「戦後政治にゆれた憲法九条 第3版」中村明著
   ・「内閣法制局による憲法解釈小論」間柴泰治・国立国会図書館レファレンス2008.2  
   ・「違憲審査制と内閣法制局」佐藤岩夫・東京大学社会科学研究所「社會科學研究」第56巻第5/6号, 2005.03
   ・「内閣法制局による法案審査過程」西川伸一・明治大学政経論叢第72巻第6号
   
 
[PR]
by kahajime | 2013-08-24 16:35 | 憲法
安倍政権は、集団的自衛権行使を認める国家安全保障基本法の制定に並々ならぬ意欲を燃やしています。しかし、集団的自衛権行使は憲法上認められないとする内閣法制局の存在が故に、当初、安倍政権は、議員立法によって内閣法制局の見解を変えてしまおうと考えてきました。
 しかし、最近、議員立法という「迂遠」な道を経ることなく、内閣法制局長官を交代させ、内閣法制局の見解自体を直接、根本から変えさせ、その上で、国家安全保障基本法を内閣法制局を通して国会に提出し、与党の数の力で法案を可決しようと考えています。
 このようなことが果たして許されるのかについて、以下検討します。
 長文となるので、2回に分けて、アップしていきます。

第1 内閣法制局の役割と権限
 1 内閣法制局の沿革と役割
(1)明治憲法制定以前から存在した内閣法制局
 まず、内閣法制局とはそもそもいかなる機関であるのか。その歴史から簡単に振り返る。この点については東京大学社会科学研究所の「社會科學研究」 第56巻 第5/6号, 2005.03の「違憲審査制と内閣法制局」(佐藤岩夫)を参照した。
 内閣法制局の歴史は古く、直接的には1885年(明治18年)の内閣制度の発足に伴い、「法制局官制」が制定され、内閣に法制局が設置されたことに始まる。ただし、それ以前にも若干の前史があり、1873年(明治6年)5月2日の太政官無号達太政官職制により、太政官正院に「法制課」が設置され、法制課は1875年に法制局に変更された。
 その後、1881年に太政官中に参事院が設けられ、法制局の法律規則に関する事務が参事院に引き継がれた。参事院は内閣が全国務の統一を確保するための補助機関というべきもので、フランスの国務院(コンセイユ・デタ)を範にとったもとのと言われている。参事院が法律命令の起草審査の他に、行政裁判も所掌していたのも、フランスの国務院にならったものである。
 1885年に発足した法制局は、基本的に参事院の権限を引き継いだ。
 1889年に大日本帝国憲法が制定されると、行政裁判所が創設されるなどしたため、1890年に新しい「法制局官制」が制定され、所掌事務を法令案の審査、立案、内閣総理大臣への意見具申などに整理し、さらに1893年に組織上の位置づけについて一定の修正が加えられた。それが第二次大戦時まで継続した。
 以上の沿革からすると、内閣法制局は、内閣の国務の統一を確保するための重要な補助機関として、明治維新直後から法治国家の根幹を担う役割を果たしてきたといえる。

(2)戦後の内閣法制局の廃止と復活
 第二次大戦後、現行日本国憲法によって裁判所に違憲立法審査権が付与された。その後、1948年2月15日には、GHQの指示によって法制局が廃止され、法制局は一時、内閣直属の地位を失った。
 しかし、1952年4月に平和条約が発効し、独立を回復すると、同年8月、内閣における法制の整備統一に関する機能を強化するため、法制局が4年半ぶりに復活し、再び内閣の下に置かれた(1952年法制局設置法)。
 同法律の3条により、内閣法局の任務が明示され、今日まで維持されている。
 すなわち「閣議に付される法律案、政令案、条例案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて内閣に上申すること」(3条1号)、「法律案及び政令案を立案し、内閣に上申すること」(同条2号)、「法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣および各省大臣に対し意見を述べること」(同条3号)、「内外及び国際法制並びその運用に関する調査研究を行うこと」(同条4号)、「その他法制一般に関すること」(同条5号)である。
 その後、1962年7月に、名称が内閣法制局に改称され、現在に至っている。
 内閣法制局の復活は、内閣提出法案が主流となる中で、内閣の法制の整備統一の機能を強化するという必要性に伴うものである。

(3)内閣法制局の役割
 以上から、内閣法制局は、我が国が近代国家を歩み始め、法治国家たらんとした時点から存在したものであり、「法治国家の要」としての役割を担ってきたと言える。
 また、内閣の法制の整備統一を図り、法体系の一体性を確保してきた。
 さらに、後述するように、内閣法制局の憲法解釈を通じて、「権力の行使を憲法が縛る」という「立憲主義」を行政部の内部から担保する重要な役割を担ってきたといえる。
   
 2 内閣法制局の事前審査権限
(1)事前審査の内容
 内閣が提出する法案は、閣議に付される前に各省庁が立案したもの全てを内閣法制局で審査する。日本では、国会に提出される法案の過半を内閣提出法案が占め、また成立する法案の圧倒的多数は内閣提出法案であることから、この内閣提出法案の事前審査にあたる内閣法制局の役割は大きい。
 内閣法制局による法案の審査は、主務官庁の担当官と内閣法制局の審査担当参事官との間で、原案の説明、質疑応答、原案の修正、質疑応答といった一連の手続きが繰り返し行われる。内容的には、「憲法及び他の現行法制との関係並び立法内容の法的妥当性についての妥当性についての検討はもちろんのこと、立案の意図が、法文の上に正確に表されているか、条文の配列等の構成は適当であるか、用字・用語の誤りはないかというような点についても、法律的、技術的にあらゆる角度から検討をする。その対象となる範囲は、題名、目次から本則、罰則はもとより、法律案につける提案理由にまで及ぶ」ものとされている(内閣法制局百年史編集委員会編1985:222頁)。
 もっとも、審査は基本的に形式的な側面に重点があり、法案の目的の正当性や政策的妥当性などに及ぶものではない。
 しかし、「形式面に限定されるにしろ、一字一句の誤りも許さないとされるその厳格な審査は、内閣提出法案の立案過程において重要な役割を果たしている」(「違憲審査制と内閣法制局」佐藤岩夫)と評されている。

(2)比較法的に見た事前審査機能
  こうした事前審査の機能は、日本の内閣法制局だけの特殊性ではない。もともと、明治維新後に作られた法制局の前身である「参事院」は、フランスの国務院(コンセイユ・デタ)を範としている。フランスでも、成立する法案の大部分は議員立法提出案ではなく政府提出案をもとにしており、また、政府提出法案の内容がその根幹において議会で修正されることは稀であることから、国務院が法律制定において果たす役割は極めて大きい、とされている。
なお、フランスは、憲法裁判所である憲法院を設け、1974年に提訴権者が拡大されたことで、違憲審査が拡大し、1981年以降は提訴の半数以上が違憲の判決をもたらす、という状況が生まれており、その当否は別にして、裁判所が違憲審査に極めて消極的な我が国とはかなり事情が異なる。
 ドイツも、司法省が法案の事前審査機関としての機能を果たしている。ドイツも憲法裁判所が事後的に活発な違憲審査を行い、実際に少なからぬ法令が違憲の判断を受けている。
 しかし、フランスもドイツも、事前に憲法審査をする行政機構が存在し、それが法の一貫性を確保すると共に、立憲主義を支える1つの柱として機能している、ということができる。

第2 内閣法制局の憲法解釈権限
 1 内閣法制局の憲法解釈の根拠
 内閣法制局の権限は、上記のように内閣提出法案に対する事前審査を行うことにあるが、さらに内閣法制局には憲法解釈権限が委ねられている。
 しかし、内閣法制局に「憲法解釈権限」がある、という明確な規定があるわけではない。条文上は、各省庁において憲法解釈に疑義があった場合、あるいは、関係省庁間で憲法解釈に争いがあるような場合には、各省庁からの求めに応じ、内閣法制局が、内閣法制局設置法3条第1号及び第3号に基づき、各関係省庁からの意見を聴取し、法制局内における論議、検討を経た上で、当該憲法解釈についての意見を附す、あるいは意見を述べる、と定められているだけである。
 しかし、内閣法制局の憲法解釈についての意見は、行政府内の憲法解釈の統一を図ることを目的としてなされることから、内閣法制局の憲法解釈が結果として行政府内の統一した憲法解釈として最大限尊重され、内閣によって採用されている。
 その結果、「内閣法制局は、国民に対する権限を持っていないが、他の官庁に対しては、内閣法制局設置法第3条第3号の規定により、法律問題に関する意見具申権や、国の最高法規である憲法の最高有権解釈権者として事実上の権限を行使している」(中村明「戦後政治にゆれた憲法九条 第3版」32頁)と評されているのである。

 2 内閣法制局の憲法解釈の効果 
 この「意見」の効力について、井出嘉憲信州大教授(東大名誉教授・行政学)は、「意見に法的拘束力があるかといえば、明文で示されていない。しかし内閣法制局の意見が退けられ、他の意見が採用されることはない。つまり意見には法的拘束力の上位にある政治的拘束力がある。また憲法解釈についても、内閣法制局の見解が行政府の有権的解釈とする、ということが前提でこの仕組みが成立している」と説く。
 このように、内閣法制局の憲法解釈については、法的拘束力はないが、「法的拘束力の上位にある政治的拘束力」があるとされている。
 この点、平成8年4月24日の参議院予算委員会において、大森内閣法制局長官は次のように述べている。

 「憲法を含めまして法令の解釈というものは、最終的には最高裁判所の判例を通じて確定されることが現行憲法上予定されていることは御指摘のとおりであります。したがいまして、そのような意味で私どもの見解というものがいわゆる最高裁判所の判断のごとく拘束力を持っているものではないということは、もう指摘されるまでもなく重々承知しているわけでございます。

 ただ、やはり法律問題に関し意見を述べることを所掌事務として設置法に明記されていることに照らし考えますと、法制局の意見は、行政部あるいは政府部内においては専門的意見として最大限尊重されるものであることが制度上予定されているということは申し上げたいと思います。」



 大森氏が述べるように、内閣法制局の意見には法的拘束力はないものの、行政部内においては専門的意見として最大限尊重されることが制度上予定されているといえる。

 3 内閣法制局の憲法解釈の厳格性
 内閣法制局の憲法解釈は厳格であり、一貫しており、解釈の変更は原則として認めない、とされている。
 この点、昭和50年2月7日の衆議員予算委員会において、吉國内閣法制局長官は次のように答弁している。

「法律の解釈は、客観的に一義的に正しく確定せらるべきものでありまして、行政府がこれをみだりに変更することなどはあり得ないものでございます。」

 また、昭和53年4月3日の参議院予算委員会において、真田内閣法制局長官は、次のように答弁している。

「憲法をはじめ法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、それが法規範として持つ意味内容を論理的に追求し、確定することであるから、それぞれの解釈者にとって論理的に得られる正しい結論は当然一つしかなく、幾つかの結論の中からある政策に合致するものを選択して採用すればよいという性質のものでないことは明らかである。」 

 このように、複数の解釈が可能、という立場ではなく、論理的に1つしかない、という捉え方をしている。巨大な国家権力を行使してゆく行政府において、憲法適合性の判断に「ブレ」があっては立憲主義を否定しかねない、という緊張感から導き出される思考であると考えられる。

 4 憲法解釈の変更について
 憲法解釈について極めて厳密な立場を取る内閣法制局は、立憲主義を行政部内部から支えるという意味で極めて重要である。そこで、憲法解釈の変更についても極めて慎重な姿勢を取っている。この点に関し、平成8年2月27日衆議院予算委員会において、大森内閣法制局長官(当時)は次のように述べている。

○石井(一)委員「この際、御出席をいただきました大森内閣法制局長官に、個別的自衛権、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更はあり得るのか、このことについて御意見を伺いたいと存じます。」

○大森(政)政府委員 憲法解釈の変更はあり得るのかというお尋ねでございますが、憲法を初め法令の解釈と申しますのは、当該法令の規定の文言、趣旨に即しつつ、立案者の意図等も考慮いたしまして、また、議論の積み重ねのあるものについては、全体の整合性を保つことに留意いたしまして論理的に確定すべきものであるというふうに解しているところでございます。私どもも、今までいろいろな憲法問題につきましては、このような態度で対処してきたつもりでございます。
 そこで、政府の憲法解釈等についての見解でございますが、以上申し述べましたような考え方に基づきまして、それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものと考えております。したがいまして、一般論として申しますと、政府がこのような考え方を離れて自由にこれを変更するということができるような性質のものではないというふうに考えております。
 したがいまして、政府がその政策のために従来の憲法解釈を基本的に変更するということは、政府の憲法解釈の権威を著しく失墜させますし、ひいては内閣自体に対する国民の信頼を著しく損なうおそれもある、という観点から見ましても問題があるというふうに考えているところでございます。


上記の大森内閣法制局長官の答弁から、内閣法制局が、憲法解釈を厳格に行い、その論理的一貫性を厳格に追求しているのは、政府の憲法解釈の権威を失墜させ、内閣自体に対する国民の信頼を損なう、という弊害をもたらさないこと、そして同時に、憲法を頂点とする法秩序の維持を図る、という目的のために行っているのであり、内閣法制局自体の権威のために行っているわけではないことが明確に示されている。

 5 内閣法制局の立憲主義を支える役割
 以上のように、内閣法制局は憲法解釈権をもって、憲法を頂点とする法秩序維持を図る重要な役割を担ってきた。
 このような内閣法制局の役割として、昭和54年12月11日、衆議院法務委員会において、味村内閣法制局第一部長(当時)は次のように述べている。

 「憲法に反する政治を行うことは許されないことは当然でございます。したがいまして、仮に内閣において何らかのことを決するという場合におきましては、私ども内閣法制局といたしましては、法律上の意見を内閣に申し上げるという立場から、違憲なことが行われることが絶対にないように、細心の注意を払ってご意見を申し上げておる次第でございまして、決して内閣は憲法に違反致しました行為をして良いということはないわけでございます」

 つまり、内閣において憲法違反が行われないように、細心の注意を払って意見をすることが、内閣法制局のつとめであるとしているのである。
 こうした内閣法制局の姿勢に対しては、「財務省が予算編成権を通じて各省庁を横断的に掌握しているのに対し、内閣法制局は政治部内での憲法の最高有権解釈権者として、『法の支配』を盾に、官僚や政治家が憲法や法律を逸脱しないようににらみを利かせている」(「戦後政治に揺れた憲法九条 第3版」47頁・中村明著)などと指摘されている。
  「にらみを利かせている」という指摘が適切かは別にして、内閣法制局は、憲法解釈権を通じて、我が国の「法の支配」、「立憲主義」、を行政府の中枢で支え、行政府が違憲行為をしないよう、立憲主義を行政内部から実質的に担保する、という重要な機能を担ってきたと言える。
    
[PR]
by kahajime | 2013-08-24 16:27 | 憲法
6月11日、12日の二日間、新宿のスペースゼロにて、「非戦を選ぶ演劇人の会」主催のピースリーディング、「いま、憲法のはなし」が開催されました。

http://hisen-engeki.com/

台本は、僕が知っている憲法関連のもののなかで、最高峰のものでした。
台本を書かれた石原さんに、心から敬意と感謝の意を表したいと思います。

また、俳優の方達の熱意も伝わってきて、本当に素晴らしかったです。最後に、憲法前文をみなさんが読まれているとき、涙が出てきそうになりました。

訴える内容のある「台本」が、さらに俳優さん達の体を通じて言葉として発せられることで、また一段と聞く人の心に届く、ということを、体感しました。

「言葉の力」を体の芯で体感しました。

11日の公演では、ピールリーディングの後、私が僭越ながら、憲法の話、特に国家安全保障基本法の話を少しさせていただきました(12日は、社会学者の小熊英二さんが話されました)。
女優の根岸季衣さんとの対談の形で、個人的にはとても楽しい時間を過ごすことが出来ました。

私の力不足で、十分伝えきらなかったのですが、ピースリーディングの方で、今、多くの方とシェアしたいことは十二分に伝わったと思っていますので、悔いはありません。

戦後の首相の中で、安倍首相ほど、「憲法改正」に執念を持っている首相はいません。
本気で、「憲法改正」をしようとしてきていると思いますし、また、集団的自衛権行使を認める国家安全保障基本法を作ってくると思います。

ピースリーディングの台本のように、今の事態は確かにかなり深刻です。

しかし、今回のピースリーディングに参加させていただき、皆さんと話をさせていただいて、こんなに人間的で、魅力的な人達が、自分の思いを素直に声を上げている以上、「そう簡単に憲法を奪われることはない 」と確信しました。

人間的な魅力があるから、日頃も良い仕事が出来るのだろうし、「演劇人」の皆さんが活き活きと「演じる」ことが出来る社会を、今後もずっと続けていきたいと思いました。

今回、このような貴重な公演に呼んでいただいた根岸さんはじめ、みなさんに心から感謝しています。

皆さんの今後のますますのご活躍を祈念しています。
[PR]
by kahajime | 2013-06-14 15:49 | 憲法
5月12(日)、愛知県弁護士会主催の憲法記念行事として、「戦争をしない国 日本の憲法と外交」と題して孫崎享さんをお招きします。

時間は12時半開場、13時開演。場所は名古屋市中区の中区役所ホール。先着500名様。無料です。

http://www.aiben.jp/page/frombars/topics2/664kenpou.html

孫崎さんは、外務省で国際情報局長を務め、また、イラン大使なども歴任され、防衛大学校の教授もされた、外交のスペシャリストです。

孫崎さんとともに、憲法と外交について、議論を深めたいと思います。

私が対談相手の一人を務めさせていただきます。

もう一人の対談相手が、岩月弁護士で、TPP問題については日弁連のエースですので、その問題にも議論が及ぶと思いますが、基本は、憲法改正問題について、現実の対米外交やアジア外交など、現実の外交政策を踏まえながら議論を深めていきます。
[PR]
by kahajime | 2013-05-06 17:09 | 憲法
第1 憲法とは何か
 憲法とはそもそも何か。もちろん、国家の根本法である、ということは言うまでもありませんが、憲法の重要な機能として、「国家権力を縛る安全装置」という点があります。憲法で権力を縛ることは「立憲主義」と呼ばれています。

 もともと、国王に好き放題させない、というところから発展してきたものですが、国民主権になり、民主主義の政治システムを取る欧米各国は、今も「立憲主義」をとり続けています。それは、議会制民主主義の下で「多数者」によって信任された政府であっても、権力は時に暴走し、特に少数者の人権を踏みにじる危険性が常にある、という教訓に基づいています。

 むしろ、政府が多数の国民に熱狂的に支持されているときほど、少数者は切り捨てられ、人権が踏みにじられることがあります。民主主義システムの下での「立憲主義」を「立憲主義的民主主義」といって、多数者であれば何を決めても良いという意味での「多数者支配民主主義」と対比されます。現在、少なくとも欧米諸国は「立憲主義的民主主義」を採用しています。

 日本国憲法下の日本も「立憲主義的民主主義」の国です。

第2 立憲主義の国ではなくなる
 しかし、自民党の新憲法草案を見てみると、国益や秩序を明確に人権よりも上に位置づけます。これでは、結局秩序維持のために大事だとして作られた法律や政策は、常に人権よりも優先されますから、権力を縛る、という憲法の機能はなくなってしまいます。

 逆に、国民に対する義務規定がたくさん入ってきます。これは、立憲主義を理解していないという点で、絶望的です。

 まず、民法も刑法などは誰に向けられているかと言えば、私達市民です。国会や政府などの「権力」が、国民に向けて「守れ」とするものです。
 これに対して、憲法は、主権者である国民が、権力に対して「ここまでは権力の行使はしても良いが、これ以上はダメ」という「枠」をはめる、というもので、国民から権力に向けて「守れ」とするものです。
 憲法と他の法律とは、命令する側とされる側が真逆になっている、というところが大事なのです。
 だから、憲法の命令を受けて、憲法を尊重する義務を負うのは権力を行使する地位の人達ですから、憲法99条では、天皇や大臣などの公務員には憲法尊重擁護義務が課されているのです。しかし、「国民」は命令をする側であって、義務を負う側ではありません。ですから、憲法尊重擁護義務を定めた99条には「国民」が入っていないのです。
 自民党の「草案」は、憲法の矛先が権力から国民へと180度転換し、憲法を国民を支配統治するための道具にしてしまいます。

 もしこの憲法が日本の憲法になってしまえば、日本は「立憲民主主義国家」とはいえなくなります。

第3 96条改憲について
 96条は、改憲の発議について、両院議員の3分の2以上の賛成を要件としています。
 普通法律は、「過半数」という「単純多数」によって決してゆきますが、憲法はその「多数」をも縛るという「立憲主義」に意味があるのですから、憲法改正の手続きを厳しくし、国会の「単純多数」では変えられないようにしているのです。
 96条改憲を言う人達は、日本の改憲手続きが厳しいと言っていますが、アメリカやドイツは日本より改憲手続きは厳しいです。

 この96条を改正して「過半数」に緩めてしまえば、たとえ国民投票が必要だとしても、単なる「多数者支配民主主義」になってしまい、日本はこの時点で「立憲民主主義国家」とは言えなくなってしまいます。


第4 国防軍について
 自民党草案では、国防軍の創出が規定されています。自民党は、「今でも自衛隊等軍隊があるのだから、実体を合わせるだけだ」「どの国だって国防軍がある」「普通の国へ」と言っていますが、全く違います。
 この「国防軍」は、上記の自民党の新憲法草案の中にあることをしっかり見る必要があります。

 つまり、他の諸国と異なり、権力を縛る「憲法」がなくなり、「立憲主義」を放棄してしまった上で、国民に義務を課し、統治する。その手段として「国防軍」を位置づけるのです。そうなると、国防軍という名の、国民を統治し弾圧する強大な軍隊が我が国に出現することになります。
 これは単に「自衛隊」を「国防軍」に名称を変えるだけの話では全くありません。
 行き着く先は、物言えぬ監視社会、軍事国家に他なりません。 
  
 

第5 アメリカの先兵として
 さらに、我が国には、現実に他国と違う特徴があります。それは日米安保の存在です。
 北沢元防衛大臣が「憲法九条があったからアメリカの過度な要求を拒めた」と言っていますが、まさにアメリカの軍事的な要求に対する防波堤の役割を果たし、国民をアメリカの戦争から守ってきたのが憲法9条だったといえます。イラク戦争では、憲法九条があったが故に、正面からの軍事攻撃への参加を拒むことが出来ました。
 イラク戦争で膨大な費用をかけたアメリカは現在、10年間で50兆円の軍事費の削減を進めています。しかし世界戦略はそのままです。そこで「同盟国」である日本に軍事力の肩代わりを求め、集団的自衛権の行使が可能になるようにと強い働きかけをしています。
 アメリカの「押しつけ憲法」を言いながら、現在のアメリカの「押しつけ憲法改正」に屈服してしているのが現状です。
 もし、今後9条が変えられてしまえば、日本はアメリカの世界戦略に深く組み込まれ、アメリカの戦争の先兵としての役割を担ってゆくことを強いられるでしょう。
 イラク戦争は、アメリカの「先制的自衛権行使」に対して、イギリスは「集団的自衛権」を理由に参戦し、179名もの若者が命を落としています。米兵は4400人を超え、イラクの市民の犠牲者数は65万人とも言われています。
 このようなアメリカの戦争に、将来にわたってずっと付き従う国になるのかどうかの瀬戸際です。


第6 スケジュール
 安倍政権は、目的は明確に憲法九条改憲ですが、改憲までも待てない、ということで、9条を下位の法律で実質的に変えてしまおうとしています。
 その法律の名前は、「国家安全保障基本法」といって、集団的自衛権を認めるなど、憲法九条を完全に骨抜きにする内容です。
 自民党は党内での激しい議論の末、2012年7月に自民党内の手続きを終え、法案として提出が可能な状況になっています。
 しかも、集団的自衛権行使を認めない内閣法制局を回避するために、「議員立法」によって国会に提出し、数の力で法律を成立させ、内閣法制局の憲法解釈を変えさせようとしています。
 これ自体、憲法の縛りを否定する、という意味で立憲主義の否定です。数の力で憲法を破壊する。権力の縛りを受けている政権与党自らの手によって立憲主義が破壊されようとしています。
 さらに、その後、96条改憲を経て(この問題は上述したとおりです)、9条改憲に進む、という段取りです。


第7 立憲主義の破壊に抗う
 自民党執行部は、本気で「改憲」を進めようとしています。
 私達も、本気で立ち向かわねばなりません。
 自民党が進める新憲法草案は、まさに権力者自らへの縛りを取り払い、憲法を国民を締め付ける道具へと180度転換してしまうという憲法破壊に他なりません。
 その問題をしっかりつかまえ、草案の問題を大きくつかまえ、広げることが大事です。
 幸い、私達には、今の憲法があります。
 憲法を武器に、正面から立憲主義の破壊に抗っていきたいと思っています。
 

 
[PR]
by kahajime | 2013-04-22 00:21 | 憲法