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第1 はじめに
 
 ハーバード白熱授業で日本でも有名になったマイケル・サンデル氏は、「市場の論理が社会の多くの領域に入り込んでいます。こ の30年間『市場社会』とでも呼べる社会になっていて、特に欧州や米国では顕著です」 と述べ、「道徳に関わる領域まで市場の論理が入り込んでいます」(朝日新聞2012年6 月7日)と、現代の「市場社会化」に対して警笛を鳴らしている。
 ここでは、現在国会で議論が行われている「子ども子育て新システム」と市場の論理との関係について検討する。

 
第2 「子ども・子育て新システム」とは
 1 2012年6月末の「3党合意」によって、「子ども子育て新システム」の柱の1つである「総合こども園法」は撤回された。しかし、「保育の市場化」という「子ども・子育て新システム」の本質は変わらぬまま、衆議院を通過し、2012年7月末現在、参議院での議論が始まっている。
 まず、「子ども・子育て新システム」(以下「新システム」)について簡単に俯瞰する。

 2 現在の児童福祉法上では、市町村は、保護者から保育の申し込みがあり、保育の必要がある場合には、「保育所において保育しなければならない」(児童福祉法24条)とされ、市町村に保育の実施責任が課せられている。そのため、公立保育園に対してはもちろん、私立の認可保育所に対しても自治体が必要な補助金を出して保育所の運営を財政的に支えてきた。

 保育料は、親の収入に応じて決められ(応能負担)、同じ自治体なら、公私の差は基本的にない。こうした制度により、親の収入に関わりなく、保育を必要とするすべての子どもが均しく良質な保育を受けられるような仕組みを作り、日本社会全体で子どもを大事に育ててきた。

3 「新システム」ではどうなるか
 これに対し、「新システム」では、児童福祉法24条を変え、市町村の「保育実施責任」を後退させ、自治体から保育園への補助金をなくし、保育を市場に委ねる。
 市町村は保育の必要量を認定し、それを基準に利用料の一部を保育園ではなく親に「現金給付」として支給する。親は、「給付」を足しに、保育園に保育料を払うことになる。 

  しかし、この「現金給付」がどのくらい出るのか、金額も割合も法律では決めない。
 一端決まったとしても基準がないため、常に下げることが可能である。

  保育料の「足し」としての「現金給付」があったとしても、自治体から保育園への補助金がなくなるため、保育所の運営は厳しくなり、親が負担する保育料は確実に上がるだろう。

   「子ども子育て新システム」は、保育を「市場化」するための施策である。

第3 「市場社会化」の一環としての「保育制度改革」
 「子ども子育て新システム」は、市場の論理を保育制度の導入していくものである。
 しかし、本来、「保育」は、非市場的規範の律する領域である。

 こういった非市場的規範領域に市場の論理が拡大されていくことについて、マイケル・サンデル氏は次のように述べている。

  「セックス、出産、育児、教育、健康、刑罰、移民政策、環境保護」などは、非市場的領域であり、本来「道徳の領域」にあるものとし、具体的な例として、保育所の延長保育の事例を挙げている(「それをお金で買いますか」129頁)。

 サンデル氏は、非市場的規範の律する保育の領域に市場の論理が応用された結果、親側の「保育士に迷惑をかけない」という「道徳的義務」が後退し、「保育士にお金を払えばすむ」と親の「規範が変わった」と指摘し、親と保育士との関係が「道具主義的」に変化してしまったと指摘している。

 「市場化」によって、本来私たちのコミュニティーにあった非市場的な規範が後退する現実に対し、サンデル氏は、「非市場的な規範や期待が失われると、われわれが後悔するような(あるいは少なくとも後悔すべき)方向に、活動の性格が変わってしまうだろうか。もしそうだとすれば、われわれは金銭的インセンティブをその活動に取り入れるのを-そこにある程度の利点があるとしても-避けるべきだろうか」(131頁)と私たちに問題を投げかけている。
 

第4 「市場化」で変わる保育現場
 1 サンデル氏は、非市場的領域に市場が参入することで、本来そこにあった規範や期待が失われる可能性を、延長保育の事実を挙げて指摘した。
 ここでは、さらに、「新システム」によってもたらされるであろう保育現場の規範の喪失について、私なりに考えてみたい。

 2 保育所の規範(意識)も変化する
  保育所の規範も変化する危険がある。
  これまでは、少なくとも、公立保育園や、社会福祉法人が経営する認可保育園では、「一人ひとりの子どもを大事に育てる」という規範が支配し、利益を上げるという金銭的インセンティブは少なくとも表面的には存在していなかった。
 しかし、市場化が導入されることで、「より利益を上げる保育園が良い保育園だ」と、価値観が変化する。
 その結果、保育園ではコスト削減が進み、正規職員の解雇と非正規職員の拡大が進む。他方で、保育園は子どもの「詰め込み保育」を進め、利益の最大化を図ろうとするだろう。

 現実に、すでに市場化が導入されている介護保険の分野では、現在、社会福祉法人の内部留保が問題となっているし、また、2006年には、六本木ヒルズに本社を構えていたグッドウィルグループ・コムスンの不正が発覚している。
 
 保育の世界が、「子どもが第一」ではなく、「利益の最大化が第一」と意識に変化していく可能性が十分ある。
  
 その結果、子どもの生命身体に対する危険は一気に増大し、保育園での死亡事故が、増えていく危険性が指摘されている。

 「子どもの命が何よりも大事だ」という「規範」が後退し、市場の論理によって「保育事故を生むような廉価な保育所に入れた親が悪い」という「自己責任」の価値観へと変化していく危険がある。     


第5 スカイボックス社会
 1 アメリカの保育は、親の収入に応じて格差があるのが当たり前となっており、格差が拡大している。廉価の保育所では、給食がハンバーガーなどのファーストフードで、「味が濃いので満腹になりやすい」などを売りにしているところすらある。
 
 少しマシな保育所に入れようとすれば、月額20万円程度の保育料が必要とされているが、実際にそこまで払える親は限られている。

 親の収入に応じた棲み分けが固定化してしまい、格差が世代間に連鎖している。そして、「親が金持ちか否かで保育の質が異なることは当然である」という価値観がアメリカ社会を支配してしまっている。

 2 日本でも格差拡大
 「新システム」の最も重要な「柱」は、保育園へ直接の補助金をなくし、親への「給付」にすることにある。
 保育園は、親からの保育料で園の運営を行っていくことになる。
 その保育料の「足し」として、親に「給付」が支給されることになるが、こういった「現金給付」は、国や自治体の方針でいくらでも下げたり出来る。  
  
 保育園では、保育園の人件費切り下げなども恒常的に行うことにならざるを得なず、親も保育園も、極めて不安定な状態に置かれることになる。その結果、保育園に子どもを入れても、親が保育料の増額に耐えかね、保育園を辞める子どもが増えかねない。

 さらに、これまでは、地域内ではどの保育園でも、親の給料に応じて支払う金額は均一であったが、新システムでは保育料の格差が拡大していく。

 そこで、親の収入によって保育園の「棲み分け」が行われ、低収入の親を持つ子どもが保育園から排除されかねない。

  本来最も保育が必要な子どもが、社会から排除される結果となりかねない。
 
  「すべての子どもは、親の収入に関係なく、等しく慈しまれる、よって、皆等しい質の保育を受けられる」という規範が後退し、「子どもは生まれながらにして親の収入に応じて格差があって当然」という価値観へと変わってゆく。
  格差と貧困の世代間連鎖が固定化し、差別が固定化してゆく。

 3 スカイボックス化
  サンデル氏は、「それをお金で買いますか」283頁~284頁で次のように述べている。

  「お金で買えるものが増えれば増えるほど、異なる職種や階層の人達が互いに出会う機会は減っていく」「格差が広がる時代に、あらゆるものを市場化するとうことは、懐の豊かな人とそうでない人がますますかけ離れた生活を送ることを意味する。われわれは別々の場所で暮らし、働き、買い物をし、遊ぶ。子どもたちは別々の学校に通う。それはアメリカ人の生活のスカイボックス化と呼べるかもしれない。それは民主主義にとってよくないし、満足できる生き方ではない。」
  
 保育の「市場化」を進める「子ども子育て新システム」によれば、生まれたばかりの子どもたちの育ちが「スカイボックス化」し、世代間の格差の連鎖も続くだろう。

 サンデル氏は、さらに「民主主義には完璧な平等が必要なわけではないが、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いない。大事なのは、出自や社会的立場の異なる人達が日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことだ。なぜなら、それが互いに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だからだ。」と述べる。

 保育の現場はまさにそうである。

 さまざまな出自の子ども達と触れあい、喧嘩もしながら毎日の生活を送る。そこで差異の受け入れを学び、人間としての基本的な生き方を身につけていくのが、保育園である。

 生まれたときから、人間を階層化、スカイボックス化をすることは、違う他者を尊重し合う、「個人の尊厳」(憲法13条)を軽視することにもつながる。

 この結果は、サンデル氏が言うように、これは民主主義にとって決して良いことではない。

 サンデル氏は、最後に、「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生きたいかという問題なのだ。われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だろうか。それとも、市場が称えずお金では買えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか」と問題を私たちに投げかけている。 

第6 今こそ「保育の中身」の議論を
 サンデル氏は、朝日新聞のインタビューで、「政治は中立であるべきだとのロールズの議論に対し、私は道徳に中立な政治は好ましいかと問いました。好ましくもないし、可能でもないというのが結論です。30年後の社会を見通していたわけではありません。しかし道徳に中立であろうとする政治が、今の市場社会をもたらしたなら、当時の私の結論はやはり正しかったと思います」と述べている。
 
 ロールズを初めとするリベラリズムは、功利主義を批判する一方で、政治的中立性の立場に立ち、その結果、本来すべき価値の議論を「棚上げ」してきた。そのために「市場社会」化の流れを食い止められなかった部分は確かにあるのではないか。
 
 保育制度に関していえば、本来、子どもの保育、育ちを、社会全体でどう支え合うのか、その先に、どんな日本の未来を描くのか、そういった議論は不可欠である。

 しかし、こういった「価値」の議論を棚上げしてきてしまった。
 
 この間の「子ども子育て新システム」の作業部会の議論を見る限り、子どもの立場に立った議論はほとんどない(内閣府のHPで見ることが出来る)。

 企業にどうやって「保育業界」に参入させるインセンティブを作るか、という議論と、逆にその歯止めをどうするか、という、まさに「システム」の話に終始してきた。

 私達が、本質の議論を回避してきた結果、私たちはお金の議論しかできなくなり、教育、保育の価値の議論をする力すら、失ってしまったのかもしれない。

 この「ツケ」はあまりにも大きい。

 保育制度に関して言えば、どのように子ども達を社会全体でどう育てていくか、日本社会は今後どんな社会を目指すのか、など、本来すべき議論がある。

 「価値」の議論を「棚上げ」せず、意見の対立を怖がらず、全国民的に正面から議論していくことが、私達には求められているのではないだろうか。

   
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by kahajime | 2012-08-01 01:42 | 保育