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まちづくりと保育園
 まちづくり政策で注目されるアメリカの多くの都市の「成長の管理」政策ですが、その政策の1つとして、リンケージ政策があります。リンケージ政策とは、良好な都市環境に必要なオープンスペース、交通基盤、デイケア、住宅とオフィス発展を結びつける政策で、開発業者に様々な施設の整備か、その対価としての開発課徴金負担を義務づけるものです。
 サンフランシスコでは、保育リンケージ政策がとられており、5万平米フィート以上の新しいオフィスやホテルなどの開発に対して保育施設の設置を義務づけたアメリカ最初の主要都市です。現在シアトルなども同様に政策をとっています。
 複数の開発業者が共同で付近に施設を建設することも可能であり、職場と保育所の近接を可能にしています。
 こうした施設の設立については容積率の増加などの優遇措置もとられているようです。
 オフィスなどが増え、就業人口が増える地域においては保育所のニーズも同時に高まることは避けられません。 
 保育ニーズに対して、公立保育園や認可保育園を拡大していく、ということには費用の面で限界があります。「まちづくり」のプレーヤーという意味では、企業に保育所の設置かそれにみあう費用を拠出させるという考えは、むしろ公平にかなうものですし、企業の社会的責任、という面でも、一定の費用の拠出を求める合理性はあると思います。
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by kahajime | 2013-01-19 16:27 | 保育
NPOの支援に関わる中で、いろいろ考えることが多い。
今日は、NPOが市民社会にとって大事な存在となっていくだろうということについて、書かせていただきたい。

■NPOは市民の自発的な活動の基盤となりうる

 行政や他の機関、団体が対応できないまま放置されている問題は無数にある。
 
 そして、行政が地域のすべての課題に取り組むことは不可能である。
 
 しかし、これまで日本の市民運動は、どうしても行政に何かをするように求める運動が中心であった。
 
 確かに、法制度など、大きな枠組みを変えたり、多くの財政的支出が必要な課題、あるいは強制的権限を伴う仕組み作りなどについては、行政に対する働きかけは必要である。実際に、児童虐待に関しては、児童相談所の機能拡充などを求める市民の声が、制度改革を進めていった経緯もある。

 しかし、「すべての課題を行政に依存して解決する」という発想だけでは、目の前の課題を十分解決することが出来ない。
 
 そこで、目の前の問題解決に向けて、やむにやまれず、自分たちで出来ることから初めて行こう、と動き出す市民が生まれてくる。

 
 もっとも、これまでも、様々なレベルで自発的に取り組みを作る市民が社会を支えてきた。決して、行政が「公共」の全てを担っていたわけでもないし、最近になって「新たな市民が登場」して、「新しい公共」を作ろうとしているわけでもない。
 

 いわゆるNPO法が出来る以前から、目の前の課題に取り組んでいた市民は各地域にたくさんいたのである。ただ、社会的に十分認知されてこなかっただけである。NPO法が出来る前も、実質的な団体として活動を行っていたのである。
 
 しかし、こうした団体は、構成員の変更によって、組織が継続しにくいなどの問題が常に存在した。

 NPO法は、市民が自発的な取り組みを継続的に進めていく上で、「NPO法人」との法人格を取得し、継続的な活動を行っていくことを法的に一定支えることを可能とした。
 
 したがって、NPO法人は、市民の自発的な活動の基盤となりうる。
 

 なお、自発的に行動する人達はおそらく有史以来、ずっと存在したのであろう。
 
 しかし、日本は、明治維新後、ずっと「結社」「団体」を敵視するかのような法制度が続き、公的な問題に取り組む団体については国や自治体の監督の下に存在を認められる、という制度が戦後も最近まで続いてきた。

 NPO法が制定され、民法が改正され、ようやく市民の自発的活動を社会が支える法的基盤が出来た。
 
 日本の民主主義は、まだまだこれからだ。

 伸びしろも大きいと期待したい。

■ NPOの民主主義社会の基盤を作る役割

  トゥクヴィルを待つまでもなく、民主主義社会において中間団体の存在はきわめて重要である。人間を「個」に分断すればするほど、国民は全体国家へと集約されてゆく。このことはナチスや戦前の日本の経験などから明らかである。
 
 したがって、小さなコミュニティーや中間団体をたくさん作ることが、民主主義社会を成熟させることにつながる。フランスのコミューンなどは、まさに民主主義の基礎である。

 
 これに対して、今、日本では、自治体の「平成の大合併」や道州制議論など、これまでの市町村というコミュニティーすら解体する政策が取られている。 

 こういった政策が進められていく中では、逆に市民の側から、自分たちの生活を守るために、地域のコミュニティーを守り、豊かにしていくことが必要となる。

 自分の小さな地域で持続可能なコミュニティーを形成し、自分たちの暮らす社会を自分たちで作っていくという実践を行うことが、民主主義社会の基礎を作っていくことにもつながる。
 
 地域のコミュニティーを形成していく上で、大事な単位となるのが、様々な地域の問題に根ざして小さく、地道に活動に取り組んでいるNPOである。

 民主主義社会の基礎を作っていくために、そして、自分たちの生活を守ってゆくために、NPOにはますます重要な役割が求められている。  
 
 ドラッガーが指摘したように、いずれNPOの時代が来る。

 
 そう信じて、地元の小さなNPOの支援を細々と続けている。
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by kahajime | 2013-01-14 01:22 | NPO
 日本で「地域の活性化」のために繰り返されてきたのは、企業誘致と大型公共事業である。

 安倍政権の「国土強靱化」のための大型公共事業政策もその延長であるし、また、松下幸之助ら関西の財界が戦後訴え、橋下氏がひきついで訴えている「道州制」も、大型公共事業を「道州」内で積極的に行えるようにする、という点で、同じ発想が根底にある。

 道州制になれば、たとえば確かに関西圏の中で第一の都市である大阪に、圏内の「ヒト、モノ、カネ」を集中させ、大型公共事業も集中する。そこで、一時的に大阪の浮上にはつながる可能性はある。

 しかし、域内の第2の都市以下は大きく衰退する、と指摘されており、神戸や京都の地盤沈下は進む可能性が高い。
 したがって、道州制は少なくとも「全国民の利益」にはならない。

 しかし、「大阪市の利益」にはなる可能性も一時的にはある。

 そう考えると、橋下氏が参議院議員に、大阪市長の立場としての兼職を求めていることについては、「なるほど、全国民の代表としてではなく、大阪市の利益を追求して国会に行こうとしているのか、」と合点がいく。

 しかし、道州制になったとしても、大規模公共事業に依存する限り、結局は大阪も含めて衰退してゆく可能性が高いことは、関西国際空港などの大型公共事業や企業誘致型地域開発政策の失敗が物語っている。

 なぜ、大型公共事業や企業誘致型地域開発政策が失敗するのか。 

 それは、大型公共事業は、実際には地域経済への波及効果が少ない上、地域財政、環境に負担を残すからである。

 関西国際空港も、自治体の名前をネーミングライツしようとまでしている泉佐野市など、自治体の多大な負担や、関西の企業の負担がとても重かった。

 しかし、工事を受注した企業の多くは外資や東京に本社のある大手ゼネコンであった。そのため、負担は地元に残り、利益は東京や海外に流れていく、という構図が出来てしまった。

 また、三重県の四日市など、コンビナート政策では、大企業を誘致した結果、利益は東京に、公害の被害は地元に、つまり、利益は東京にもっていかれ、負担は地元の住民が負う、という構図が出来てしまっている。
 
 これまでのコンビナート政策を見ると、企業誘致は成功しても、その利益は本社(多くは東京)に移転され、地域内での再投資がされなることが少ない。

 特に最近はやりの最先端事業に至っては、地元で他の中小企業などとの連携がないため、域内再投資がほとんど生じてもいない。

 バブル崩壊後の20年の間でも、東京の利益移転が増大しており、地域から東京への利益の移動、という構図がさらに構造化している。

 最近よく、東京の利益を地方に交付金として配分することの問題が指摘されるが、そもその東京の利益は、地方の住民が労働者として生み出した利益が東京に移転してした結果であるとも言える。その、実態を踏まえて議論がされるべきだ。

 さらに、三重県の亀山のように、県を上げて多額の補助金を出してシャープなどを誘致したにも関わらず、極めて短期の間にシャープは撤退し、県の財政的負担だけが残った、ということも記憶に新しい。

 この原因としては様々なことが指摘されるが、短期間でモデルが大幅に変更する最近の家電業界などでは、大型投資が継続的な利益を生み出さなくなってしまっている、という構造的な問題も指摘されている。

安易に企業誘致(特に東京に本社がある企業誘致)を進めたり、大型公共事業を進めたりしても、地域の活性化にはつながらないばかりか、どんどん利益を吸いあげられ、負担ばかりが重くのしかかる、という地域の実態が拡大再生産されてしまう。

 貧困や格差の問題に直面する中で、地方の雇用を何とかしたいと地方在住の誰もが思うだろう。

 しかし、安易な企業誘致や、大型公共事業に活路を求めても、今まで以上に不安定雇用を拡大し、負担ばかり増える。負のスパイラルを拡大するだけだ。

 これは、道州制にしたところで、全く解決しない問題である。

 むしろ大型事業を安易に進め、東京へ移転する地域の利益を増大させ、地域の負担を拡大する、という点で、地方(東京以外)の地盤沈下を拡大する危険性が高い。

  
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 昨年末、2012年12月1日、2日に、高知市で開かれた「日本地域経済学会」の第24回大会の2日目に参加させていただいた。2日目の共通課題シンポジウム、「人口減少社会と地域再生」というテーマに大変関心があったからである。

 パネリストは、松谷明彦先生(政策研究大学院大学)、中山徹先生(奈良女子大)、松永桂子先生(大阪市立大)の3氏であった。

 松谷先生からは、日本の人口減少と高齢化の速度が主要先進国の中でも異常に速すぎること、その原因は、1945年ころの「産めよ増やせよ」政策と、1946年ころの「優生保護政策」による「大幅に減らせ」といういびつな産児操作が原因であり、他の先進国のような「一般的減少」ではなく、「構造的減少」であること、ベビーブームと第二次ベビーブームの2つの「ヤマ」がある、ということより、その間の大きな「谷」があることが構造的な問題を引き起こすことなどを、統計を下に示された。

 もはや、超人口減少社会に突入したことは間違いない。人口が減少すれば、労働人口が減少し、国としての経済力が落ちるのは当然である。この構造はもう変えられない。平成24年生まれを、平成25年になって増やすことは出来ないからである。平成23年以前生まれも同じである。向こう20年、30年の労働人口は、すでにはっきりしているのである。

 日本は、機械化も限界に達し、投資財産業は縮小し、消費需要も多様化していく。人口の流れも大きく変わる。今までは、地方の高齢化が問題であったが、今後は地方の大幅な多死化による人口減少(ようは、高齢者がたくさん死ぬ、ということ)が進む、ということと、大都市では、遅れて急激な高齢化が進む。

 高齢化が進めば、作業能率が大きく下がる。その結果、東京の労働力率が群を抜いて下がってしまう。東京の勤労世代の負担増の速度が急激に進み、東京の高齢者対策による財政収支の圧迫と、経常的財政収支の困難化が加速度的に進む。

 その結果、2025年をピークに、大都市圏における一人あたりの国民所得が一気に下落し、高知県や島根県などを遙かに下回ってゆく(逆に秋田県など、現在すでに過疎地対策を取っていることは、緩やかに国民所得が伸び続けるらしい)。

 特に都市部において深刻な事態が招来することは避けられないことが、統計を下に具体的に示された。

 また、中山徹先生は、アメリカの人口減少による街の「空洞化」の現状と、日本でも全国各地の「郊外」のかつての「ニュータウン」で空き家が拡大し、治安が悪化していることなど、具体例を示された。

 その上で、人口減少(人口流出)が進んだ旧東ドイツなどで行われている団地の「減築」(たとえば10階建ての団地を5階建てに建て替えるとか、10棟のうち3棟を壊して公園にするなど)を紹介され、「日本でも都市計画として街を計画的に「減築」していかないと、大変なことになる」と強く訴えられた。

 また、街が拡大し、経済が拡大していくことを前提としている時には財政確保がしやすいが、逆に街を小さくしていく時には、その財源の確保が課題であることなどが提起された。

 
 かなりショッキングが問題提起が続いたが、同時に現在の過疎地での地域再生の具体例が示されるなど、明るい方向性も示され、極めて有意義な大会であった。

 超人口減少・超高齢化社会が現実に進行している。

 「減築」という点では、団地などの「減築」や街の「スマートシティ政策」などの都市政策としての「減築」だけでなく、人口拡大と経済成長を前提に作られた社会制度そのものを、意識的・計画的に「減築」してゆくことが緊急の課題ではないか。

そこを野放しにしてしまうと、社会全体のバランスが一気に崩れ、日本社会が崩壊しかねない。

 問題が深刻化してからでは遅い。

 都市政策や過疎地対策のみならず、年金制度などの社会保障制度や、経済政策、国土保全政策なども「社会的減築」という観点から意識的・計画的に対策を進めていく必要がある。

 しかし、 自民党の経済政策を見ると、人口が増大していくことを前提にした、「高度経済成長」時期の大型公共事業政策そのものである。

 一時のカンフル剤として、株価などは上昇するだろうが、実体経済の成長は続かず、負担ばかりがさらに拡大することは目に見えている。

 超人口減少・超高齢化社会が現実に進行しているのである。いつまでも「経済成長神話」に依拠した経済政策をしていては、ミスマッチが拡大するのみで、問題が拡大する。

 経済成長の神話に依拠した経済政策からいい加減脱却し、社会を上手くたたみながら、経済が持続できるように「社会的減築政策」を進める必要がある。

 時間的猶予はない。
 
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安倍自民党が大勝した。

まず、遅くとも参議院選挙後、集団的自衛権行使を可能にする「国家安全保障基本法」の制定をするだろう。

しかも、憲法9条の従来の政府見解を否定するために、政府が出す「閣法」ではなく、議員が発議する「議員立法」の形を取り、内閣法制局を通さずに法律を制定する、としている。

そしてすでに「国家安全保障基本法」は自民党内の機関決定を経ている。

なお、自民党内でも、「憲法9条を実質的に変えるのだから、正面から憲法改正をすべきで、国民に信を問うべき」と言う意見も強かったようである。このことは、石破氏が自身の著書で明言している。

憲法9条の明文改憲を回避して法律による解釈改憲を断行し、しかも、内閣法制局まで回避する、というやり方は、あまりにも国民を無視し、愚弄したやり方だ。「こそくなやり方だ」という批判が強く出るのは当然である。

しかし、安倍、石破執行部は、こういった「こそく」なやり方で、憲法9条をまず骨抜きにし、その後、憲法改正の手続きを定めた憲法96条を変えるところから憲法改正をする可能性が高い。

先に憲法改正手続きのハードルを下げた上で、次に憲法全体を変える腹づもりだと言われている。

なお、自民党の新憲法草案はすでに去年示されているが、それを見る限り、人権概念が大きく後退するなどしている。これでは、日本は「人権と立憲民主主義」という価値を共有できない国として国際社会(特に欧米)から見放されるのではないか、とても心配である。

しかも、参院選挙が終わるまでは、憲法改正のことは前に出さないようにと、麻生氏が強く忠告したとの報道がされている。

参院選で争点に出さずに、参院選に勝った後に、「後出し」的に「国家安全保障基本法」から進めていく、ということであれば、もはや「こそく」というより、国民に対する「欺き」ではないか。

2013年7月の参院選が終われば、最長3年間は選挙がない。

その間に、国民的議論がないまま、「国会の多数」の力で憲法9条の解釈改憲から押し切っていこうとしていることに、強い危惧を抱かざるを得ない。

「国家安全保障基本法」は国家の根幹に関わる問題である以上、堂々と、国民的な議論をした上で、選挙で信を問うべきである。それが民主主義の基本である。
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by kahajime | 2013-01-06 00:59 | 憲法