8年間の保育園生活を終えて

■子どもと保育園が僕を変えた
 2008年に「イラク派兵は違憲9条に違反する」という歴史的な違憲判決を名古屋高裁で獲得して一段落し、結婚7年目にして娘を授かったのが2009年のこと。2010年4月から保育園にお世話になりはじめ、2012年3月に生まれた息子がこの3月に卒園するまでのまる8年間、保育園には本当にお世話になりました。
 子どもが産まれるまでは、異常なまでの仕事人間で、子どももどっちかといえば、大の苦手でした。とくに小さい子どもは、どう関わったらいいか解らない。赤ちゃんなど、自分がだっこすれば間違いなく泣く、そう確信を持っていましたので、友人の結婚式などで赤ちゃんがだっこだっこで回ってきたときには、赤ちゃん来ないでくれ~と心の中で願っていたような人間でした。

 それが、自分に子どもが産まれ、子どもを通して保育園での関わりを経て、自分の子どもも、他の子どももみんなかわいい、と思う自分に次第に変わっていきました。
 保育園の送り迎えはもちろん、様々な保育園の行事にも積極的にかかわり、また、父ちゃん会などで同世代のお父さん達との交流を重ねていく中で、ぼく自身が少しずつ、変化していったように思います。

■保育園での「気付き」
 長いようであっという間だったこの8年間ですが、たくさんの楽しい思い出とともに、多くの「気付き」を得られた8年間でした。
 「気付き」の一つは、保育園では、0歳児であっても、その子の気持ちを探りながら保育をしている、ということでした。0歳児から個性があり、気持ちがあり、その背景もある。保育士さんたちは子どもを丸ごと受け止め、子どもから出発して保育をしていました。
 子どもの保育園の保育士さんに、子どもの意見を聞くって、どんなことか聞いてみたことがあります。保育士さんは、つぎのように話してくれました。
 「しゃべれなくても、声をかけるし、おさんぽいこうか、いく?どうする?と言語化して聞いていきます。おさんぽに行かない、というときには、『おさんぽいかないんだ』とは思いません。子どもが『お部屋で遊ぶ』ということを選び取る姿がある、というようにみるんですよ」
「子どもが一つ一つを選び取っている」。このように子どもたちを受け止めている保育士さんたちに、「すごいなぁ」と感動すると同時に、保育士さんたちのまなざしから、子どもたち一人ひとりを「かけがえのない存在」として尊重している、という人間観、子ども観をしっかり持っている、ということが分かり、保育の奥の深さを痛感しました。

■「個人の尊厳」でつながる保育と憲法
 ぼくはこれまで弁護士として、「憲法の一番の柱は、一人ひとりをかけがえのない存在として尊重する『個人の尊厳』です」と話してきました。
 『個人の尊厳」とは、平たく言えば、「あなたがあなたであるが故に素晴らしい」、ということを大切にによう、ということです。あなたらしさ、わたしらしさを大切にしよう、ということです。しかし、私自身どれだけ『個人の尊厳」をものにしていたのかといえば、とてもあやしいものでした。
 ところが、思いがけず、目の前の保育に触れていく中で、保育実践は、「個人の尊厳」を大切にする憲法実践そのものだ、と気付かされたのです。
 この「気付き」については、昨年、平松知子さんと一緒に書かせていただいた「保育と憲法」(大月書店)で書かせていただきましたので、お手にとっていただければ幸いです。
 また、ありのままの自分を受け止めてもらって育った子どもたちは、自分の気持ちも、友達の気持ちも大事にできるようになります。同時に自分の頭で考え、行動する力も培っていきます。豊かな保育実践は「個人の尊厳」とともに、「民主主義」の基盤を育む尊い営みなのだと思います。

■厳しさを増す保育環境
 ところが、保育をとりまく現実は厳しいものがあります。保育士1人で多くの子どもたちを保育する配置基準や、劣悪な保育士の処遇、さらに「安上がり」の保育政策が進められ、保育園の大規模化なども進んでいます。
 定員が500人を超える保育園、幼稚園も現実に増えています。
 大規模な保育園では、どうしても一人ひとりの個性を大切にする保育は難しくなり、「集団」としての保育が中心にならざるを得ません。
 「集団」のなかで「お利口」であることを求められて育った子どもたちは、大人が求めることには敏感に対応するのかもしれませんが、自分の気持ちをつかみ、表現していくということがどうしても弱くなるのではないでしょうか。
 保育の大規模化は、個人の尊厳とは離れた保育にならざるを得ないのではないか、と思わざるを得ません。
 また、鉄道の高架下の保育園も増えています。親にとって便利であることや、近隣から騒音の苦情がないことなどを売りにしていますが、そこには子どもを真ん中に置いた発想は見当たりません。子どもたちは自分が大切にされていると思って毎日を過ごせているでしょうか。自分も友だちも大切にする人に、育っていってくれるでしょうか。

■親たちの深刻な労働環境
 親たちが置かれている今の社会も大変です。
 正社員が減らされ、不安定雇用が拡大しています。社会の格差が拡大し、6人に1人が「貧困」と言われます。共働きをしなければ生活が出来ない家庭が増えています。
 保育園の需要が増え続けるのは、むしろ当然です。
 待機児童が増えているのは、社会全体の問題なのですから、社会全体で解決していかなければならない問題だと思います。
 しかし、現実には、待機児童解消の名の下に、お金をかけない安上がりの保育が一気に拡大し、とにかく詰め込めばいい、という政策がとられています。
 このような「詰め込み保育」政策の下で、子どもたち一人ひとりを大切にする保育など出来るはずがありません。子どもたちの安全も守られるか、とても心配です。
 保育士の処遇の改善も進んでいません。保育士不足が深刻とされる中で、抜本的な処遇改善が図られなければ、保育現場は回っていきません。
 保育士自身が「大切にされている」と感じながら働けなければ、保育園で子どもたちを大切にする保育など出来るはずもありません。
 保育士の専門性に見合った適切な処遇を実現していくことが急務です。

■壊される「保育の質」と保育に介入する国家
 加えて、一気に進んでいく「保育の無償化」も、世界的に「保育の無償化」は大きな潮流ですが、今日本で進められようとしている「無償化」は注意が必要です。
 認可外のいわゆるベビーホテルなどにもお金が出る、ということになったことは問題があるのではないかと思っています。
 最低基準を確保していない保育が拡大していったら、子どもたちの安全はどうなっていくのでしょうか。
 「儲け」を狙って多くの企業などが参入してくることになれば、「保育の質」は著しく後退します。利益を上げるために、人件費は最大限抑制するでしょうから、保育士の処遇もますます低下することでしょう。
 これまで積み重ねてきた保育の専門性自体も壊されてしまいかねません。
 もしかしたら、この国から「保育」が失われかねない、そんな危機感を抱いています。
 今まさに、「保育」は大きな瀬戸際に立たされている、と言わざるを得ません。
 さらに、この4月から施行された改正保育指針では、「国旗国歌に親しむ」ことが求められます。「国を愛する」という価値観を子どもたちに植え付け、子どもたちを社会の「駒」として育てていこうとしています。
 保育を巡る大きな流れが、「個人の尊厳」とは真逆の方向へと大きく進んでいることを、捉えておくことが必要だと思います。

■保育と憲法は岐路に立たされている。
 憲法改正の動きも加速しています。
 安倍首相の執念はかなりのものです。改憲については、決して諦めていないと思います。
 自民党の改憲草案には、『個人の尊厳」が削除され、ただの「人の尊厳」に変えられていることは注目すべきだと思います。
 一人ひとりを大切にする社会から、人を社会の駒として扱う社会へと転換しようとしている。それが自民党の国家観、人間観ではないか、と思います。
 安倍政権は、憲法9条の改憲を正面から行おうとしていますが、戦争はまさに、一人ひとりを大切にしない、人を社会の駒として扱うことそのものです。
 今、一人ひとりを大切にする社会を選ぶのか、子どもを、人を、社会の「駒」のように扱う社会を選ぶのか、が問われています。
 憲法を守り活かすことと、豊かな保育実践を積み重ねていくこととは、一人ひとりを大切にする社会を作っていく、ということで重なり合っています。まさに、保育実践は憲法実践なのだと思います。
 憲法も保育も岐路に立たされていますが、一番岐路に立たされているのは、子どもたちの未来そのものです。
 子どもたちの未来を守るためにこそ、豊かな保育実践を大切にし、憲法を守っていきたい、そう思っています。
 日々の保育実践の大切さをかみしめながら、目を社会に向け、子どもたちの未来のためにできる小さな保育運動と、小さな憲法運動を、ぜひ、職場から積み重ねていってほしい、そう思います。
 私自身も、弁護士として、また、子どもを持つ親として、子どもたちの未来のためにできることを、一つ一つ大事にしていきたいと思っています。


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by kahajime | 2018-07-22 11:55 | 保育