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 警察に取り調べを受けた際に採取されたDNAデータを、捜査終了後も保管しているのは憲法13条に違反する、などとして、名古屋市内の50代の女性保育士Aさんが、国を相手にデータの抹消と慰謝料を求め、2019年6月13日、名古屋地方裁判所に提訴しました。この提訴は中日新聞などで大きく取り上げられました。

 Aさんは、2014年6月、行方不明となった犬の情報を求めるチラシを、天白区内に9枚貼った、ということだけで、名古屋市の迷惑防止条例に違反する、として、同年7月初旬、天白警察からAさんのところに「チラシを電柱に貼ることは条例に反している」との電話があり、7月10日警察に出頭を求められました。
 同日午前中、Aさんは、天白警察の警察官数名に連れられて、警察車両に乗せられ、犬チラシを貼った9カ所を回り、その都度、被疑者として電柱に指さし確認をさせられながら、写真を撮られました。
 その後、天白警察に連れて行かれ、午後3時まで取り調べを受けています。

 さらに、8月19日にも警察から再度呼び出され、身上経歴の書面を作った後、おもむろに鑑識室に連れて行かれました。そこで、説明もないまま写真を撮られ、両手10指の指紋を取られ、さらにDNAも採取されました。DNAに際しては「DNAを採取しておくと、天災の時に身元判明につながります」という説明があっただけで、捜査に必要だという説明はなく、任意であって断れる、という説明も一切なく、問答無用で採取されました。

 その後、Aさんは当然、不起訴となりましたが、Aさんとしては、将来にわたってずっと、被疑者として、自分の写真、指紋、DNAデータが警察に保管され続けることは耐えがたい苦痛を覚えていました。
 しかも、任意で断れる、という説明もなかったことに、Aさんは強い憤りを覚え、同年11月頃、天白警察に情報の削除を求めましが、削除されたという連絡はありません。

 
 2019年5月に、私が国会議員を通じて入手した情報によれば、2018年末時点で、DNA型データベースの登録件数は121万3928件に上っています。
 2010年から始まったデータの集積は年々拡大し、膨大なデータベースとなっています。
 しかも、DNAのデータベース化については法律の規定がなく、国家公安委員会の内部規則があるのみです。データの削除は「死亡」か「必要がなくなったとき」しか認められず、「必要がなくなったとき」とは、データの重複などの場合を指すとのことであり、捜査が終了してもデータは削除されることなく、保管、集積される仕組みです。

 寄せられた情報によれば、各警察署で「DNA採取月間」なる、DNAデータの採取を推進している期間があるということであり、その期間以外であっても、基本的に取調室に入った者からは全てDNAを取る、という方針で臨んでいるということです。

 先行する類似事件の尋問で、警察官が明確に法廷で述べていましたが、原則としてどんな事件であっても、基本的に顔写真、指紋、DNAデータは収集することとなっていて、拒む人はほとんどいない、とその鑑識官は証言していました。

 「任意」を装いながら、実際には採取を拒めない実態があることを裏付けています。

 これらの情報については、もともと、その事件の捜査のため、ではなく、将来の捜査のため、入手されています。つまり、「将来起こる事件」について、その都度、顔写真、指紋、DNAを照合し、犯人ではないか、と探索されつつづけるわけです。

 DNA型データベースについては、諸外国でも整備されつつありますが、究極の個人情報であることから、いずれも法律によって厳密に定められています。

 法律によらずに、「任意捜査」を装って無尽蔵にデータを入手し、集積しているのは先進国では日本くらいです。
 ドイツなどでは、「情報自己決定権」を侵害しないよう配慮しながら法律が整備されており、捜査終了後は性犯罪や重大犯罪以外は削除されることになっています。

 日本も憲法13条により、情報自己決定権が保障されると考えられることからすれば、法律に基づかずに無尽蔵にDNAデー
タを集積し、保管している現状は、明らかに憲法13条に違反すると言わざるを得ません。

 DNAデータが集積していく、ということは、国家に常に監視される社会が構築されていく、ということでもあります。

 多くの市民のデータが保管されればされるほど、常に模範的な市民として生きようとする萎縮効果が高まると言われています。自分の行動が常に監視されていると考えながら生活するわけですから、萎縮効果は抜群でしょう。

 国家にたてつくことなく、模範的な「羊」として生きる国民を作り出すことになるわけですが、これは、アメリカの学者、ジェド・ルーベンフェルドが述べるように「全体主義原理」を国民生活の中に植え付けていくことに他なりません。
 民主主義を根底から侵蝕しかねない、重大な問題です。

 日本は、すでに高度な監視国家となりつつあります。

 しかも、個人に事故の情報が国家に管理されることに対する抵抗感が低い、ということもあいまって、その進度は著しいものがあります。
 また、DNAデータの採取が「任意捜査」を装って無制限に行われている現状は、DNAデータの集積のために、軽微な事件でも取り調べを行い、DNAを採取するということを誘発します。つまり、DNAを取るために捜査をする、ということが拡大しかねません。

 軽微な取り調べが拡大し、市民生活に警察権が過度に干渉してくることにつながります。

 本件は、まさに、犬を探しているというチラシを9枚貼っただけ、という極めて軽微な件です。せいぜい、名古屋市の土木課から一般電話をすればすむだけの話です。

 Aさんは、この件で不起訴を求める署名をしたことから、勤務先からその後、退職を強要され、仕事を失っています。

 取り調べをする、ということ自体が、市民の人生をいかに踏みにじってしまうか、だからこそ、抑制的にすべき、ということは、警察は常に配慮しているはずですが、少なくともこの権では全く配慮は見られません。

 このような軽微な件で、長時間、取り調べし、DNAなどの個人情報を採取するなど、明らかな行きすぎであることは誰が見ても明らかです。

 この件は、捜査直後、モーニングバートなどの全国のテレビ局などで「行き過ぎた捜査」として報道されていますが、こうした行き過ぎた捜査は、全国に広がっていると思われます。

 DNA型データなどの採取と保管を無制限に許している現状は、警察の捜査の濫用を誘発し、また、データの集積そのものが市民生活に萎縮をもたらします。
 DNA等の究極の個人情報を法律に基づかずに国家に集積されるということは、情報自己決定権を侵害し、個人の尊厳を明らかに踏みにじるものであると同時に、先述したように、民主主義の根幹を揺るがす重大な事態です。 

 この裁判は、個人の尊厳と民主主義を守るために、重大な闘いだと位置づけて、力を尽くしていきます。
 

# by kahajime | 2019-08-21 23:04 | 憲法
とても久しぶりにブログを更新します。申し訳ありません…。

名古屋の中区にある名古屋教会幼稚園の南側に15階建てのマンションが建設されており、その差し止めを求める仮処分を起こし、9月26日に決定が出ました。結論としては建設の差し止めは認められませんでしたが、判断の中で、私どもが訴えた「適切な保育環境を享受しながら発達する権利」を踏まえ「園庭において適切な環境を享受する権利」を認めており、画期的な部分があったので、以下、名古屋地方裁判所民事2部の決定文から大事な部分をピックアップします。

「幼稚園は、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする施設である(学校教育法22条)。学校教育法施行規則38条の規定を受けて定められた幼稚園教育要領(平成29年文部科学省告示第62号)には、幼児教育における留意事項として、心と体の健康は、相互に密接な関係があるものであることを踏まえ、十分に身体を動かす気持ちよさを体験し、自ら体を動かそうとする意欲が育つようにすること、様々な遊びの中で、体を動かす楽しさを味わい、自分の体を大切にしようとする気持ちが育つようにすること、自然の中で伸び伸びと体を動かして遊ぶことにより、体の諸機能の発達が促されることに留意し、幼児の興味や関心が戸外にも向くようにすることなどが明記されており(同要領第2章参照)、幼児が園庭において十分な活動を行うことは、その心身の健全な発達において重要なことといえる。

 債権者教会は、同様の考え方のもと、現に本件幼稚園における一日の活動の多くを外遊びに充てており、債権者在園児らにとって、本件幼稚園の園庭において日照などの適切な環境を享受する利益は、その心身の健全な発育へとつながる重要なものとして、法的保護に値するものと認めるのが相当である。

 そして、児童福祉法(平成28年法律第63号による改正後によるもの)に「全て国民は、児童が…社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない」(2条)、「前2条に規定するところは、児童の福祉を保障するための原理であり、この原理は、すべて児童に関する法令の施行にあたって、常に尊重されなければならない」(3条)と明記されたことも踏まえると、本件において、債権者在園児らの上記利益の程度を考えるに当たっても、同法の趣旨を十分に考慮しなければならない。」

結論としては、マンションの建築を差し止める結論には至りませんでしたが、前提の判断で、子どもに「園庭において日照などの適切な環境を享受する利益がある」と認めたことは、確かな前進だと思います。

裁判で新しい権利を積み重ねていくことは、とても大切なことだと思っており、とりわけ、建前と異なって、現実には軽視されがちな「子どもの発達権」を前提に、「適切な環境を享受する権利」を認めたことは、保育環境の劣化が問題となっている中で、とても大事なことだと思います。

名古屋教会幼稚園については、本訴を提起しており、そこでさらにしっかりと、子どもの、適切な環境を享受して発達する権利の重要性を主張をしていくつもりです。


# by kahajime | 2018-11-29 17:38 | 保育

両親が亡くなってしまったり、行方不明になってしまったり、様々な事情で子どもの「親権者」がいなくなってしまうことがあります。そうなると、子どもの生活を見たり、子どもの財産をきちんと見る人がいなくなってしまいます。
 そういった時に家庭裁判所が「親代わり」の人を選びます。それが「未成年後見人」です。

 親権者がいない子どもの多くは、児童養護施設で生活をしていることが多いですが、施設は18歳で出なければならず、その後、20歳になるまでの支えはどうしても必要です。また、施設にいる間でも、親代わりとしての対応が必要なことはたくさんあります。

 未成年後見人は、子どもがトラブなどが起こったときだけではなく、生活全般のことや、進路のことなどに相談に乗りながら、子どもが成人するまで、長いスパンでサポートをしていきます。

 私はこれまで児童相談所などからの依頼で、未成年後見人をさせていただいてきました。

 思いがけないことがかなりの頻度で起こったりもして、子どもに振り回されることも少なくありませんが、「振り回されるもしごと」と思って向き合っています。
大変な面も多々ありますが、子どもに「すごいな」と思わされることも多くあります。

 1人ではもちろん限界があるので、児童養護施設や児童相談所の皆さんとも一緒に、多くのまなざしでひとりの子どもに真剣に向き合っています。「こんな見方もあるんだな」と学ぶことが多く、「子どもを見る目を豊かにする」ということはこういうことなのかな、と思ったりもしながら、みんなで目の前の子どもに向き合っています。

 弁護士の他の一般的な仕事に比べると、長いスパンで子どもの成長にじっくりかかわっていくので、人間力が問われる部分が多く、胆力も問われます。
 実の親ではないので、出来ることにも限界があり、距離感が難しい部分もあります。

 子どもを真ん中におきながら、児相や施設などのみんなで1人のこどもの成長にかかわっていくその道のりは、なかなか平坦ではありませんが、大事な仕事です。

子どもの力を信じて、ともに成長していきたいと思っています。
 


名古屋第一法律事務所は今年、創立50年周年を迎えました。

「東海地方に自由と人権の砦を」と、若い弁護士たちが事務所を設立してから50年。
いまや所属弁護士は30人を超え、東海地方で最も大きい法律事務所となりました。

 私自身は、埼玉出身ですが、司法試験合格後、修習希望地の「第5希望」として適当に書いた名古屋に配属され、1年間の実務修習中に、当事務所の北村弁護士をはじめ多くの弁護士にお世話になりました。

 もともと地元の埼玉か東京で仕事をするものと考えていましたが、北村弁護士から「東京や大阪には、若手で人権活動を担う弁護士がたくさんいるけれど、この地域には圧倒的に足りない。どうしてもうちの事務所に来てほしい」と説得され、また、第一法律事務所の温かい雰囲気にも惹かれ、第一法律事務所にお世話になることになりました。

 事務所に入って2年目には、私がやりたいと言い出し、弁護団事務局長を担うこととなったイラク派兵差止訴訟を、事務所の所員の皆さんが支えてくれました。第一法律事務所の支えなくして、2008年の違憲判決は出なかったと思っています。
 思い切って名古屋に来て良かった、と思いました。


 事務所には、日々、離婚、相続、破産、交通事故など、困難に直面した多くの方が訪れます。私自身も、これまで多くの方との出会いがありました。時には長い時間を経ながらも、ともに問題を解決し、その方が笑顔でこの事務所から足を踏み出されていくときに、かかわらせて頂いて良かったとしみじみ思います。

 市民の皆さんが困難に直面したときに来て頂き、ともに困難を乗り越え、次の人生へと旅立っていくまでの「止まり木」のような法律事務所であり続けたいと思っています。


 第一法律事務所は、今後も、社会的に重要な大きな事件を担える事務所であり続けるとともに、市民の皆さんとともに、それぞれの困難を乗り越えていく法律事務所であり続けたい、私もその一員として、役割を果たしていきたいと思っています。

 名古屋第一法律事務所はこれまで多くの皆さんの支えがあっての50年でした。今後も多くの皆さんとともに、これからの50年を歩んでいきたいと思います。

 今後ともよろしくお願いいたします。


# by kahajime | 2018-07-22 13:16

■子どもと保育園が僕を変えた
 2008年に「イラク派兵は違憲9条に違反する」という歴史的な違憲判決を名古屋高裁で獲得して一段落し、結婚7年目にして娘を授かったのが2009年のこと。2010年4月から保育園にお世話になりはじめ、2012年3月に生まれた息子がこの3月に卒園するまでのまる8年間、保育園には本当にお世話になりました。
 子どもが産まれるまでは、異常なまでの仕事人間で、子どももどっちかといえば、大の苦手でした。とくに小さい子どもは、どう関わったらいいか解らない。赤ちゃんなど、自分がだっこすれば間違いなく泣く、そう確信を持っていましたので、友人の結婚式などで赤ちゃんがだっこだっこで回ってきたときには、赤ちゃん来ないでくれ~と心の中で願っていたような人間でした。

 それが、自分に子どもが産まれ、子どもを通して保育園での関わりを経て、自分の子どもも、他の子どももみんなかわいい、と思う自分に次第に変わっていきました。
 保育園の送り迎えはもちろん、様々な保育園の行事にも積極的にかかわり、また、父ちゃん会などで同世代のお父さん達との交流を重ねていく中で、ぼく自身が少しずつ、変化していったように思います。

■保育園での「気付き」
 長いようであっという間だったこの8年間ですが、たくさんの楽しい思い出とともに、多くの「気付き」を得られた8年間でした。
 「気付き」の一つは、保育園では、0歳児であっても、その子の気持ちを探りながら保育をしている、ということでした。0歳児から個性があり、気持ちがあり、その背景もある。保育士さんたちは子どもを丸ごと受け止め、子どもから出発して保育をしていました。
 子どもの保育園の保育士さんに、子どもの意見を聞くって、どんなことか聞いてみたことがあります。保育士さんは、つぎのように話してくれました。
 「しゃべれなくても、声をかけるし、おさんぽいこうか、いく?どうする?と言語化して聞いていきます。おさんぽに行かない、というときには、『おさんぽいかないんだ』とは思いません。子どもが『お部屋で遊ぶ』ということを選び取る姿がある、というようにみるんですよ」
「子どもが一つ一つを選び取っている」。このように子どもたちを受け止めている保育士さんたちに、「すごいなぁ」と感動すると同時に、保育士さんたちのまなざしから、子どもたち一人ひとりを「かけがえのない存在」として尊重している、という人間観、子ども観をしっかり持っている、ということが分かり、保育の奥の深さを痛感しました。

■「個人の尊厳」でつながる保育と憲法
 ぼくはこれまで弁護士として、「憲法の一番の柱は、一人ひとりをかけがえのない存在として尊重する『個人の尊厳』です」と話してきました。
 『個人の尊厳」とは、平たく言えば、「あなたがあなたであるが故に素晴らしい」、ということを大切にによう、ということです。あなたらしさ、わたしらしさを大切にしよう、ということです。しかし、私自身どれだけ『個人の尊厳」をものにしていたのかといえば、とてもあやしいものでした。
 ところが、思いがけず、目の前の保育に触れていく中で、保育実践は、「個人の尊厳」を大切にする憲法実践そのものだ、と気付かされたのです。
 この「気付き」については、昨年、平松知子さんと一緒に書かせていただいた「保育と憲法」(大月書店)で書かせていただきましたので、お手にとっていただければ幸いです。
 また、ありのままの自分を受け止めてもらって育った子どもたちは、自分の気持ちも、友達の気持ちも大事にできるようになります。同時に自分の頭で考え、行動する力も培っていきます。豊かな保育実践は「個人の尊厳」とともに、「民主主義」の基盤を育む尊い営みなのだと思います。

■厳しさを増す保育環境
 ところが、保育をとりまく現実は厳しいものがあります。保育士1人で多くの子どもたちを保育する配置基準や、劣悪な保育士の処遇、さらに「安上がり」の保育政策が進められ、保育園の大規模化なども進んでいます。
 定員が500人を超える保育園、幼稚園も現実に増えています。
 大規模な保育園では、どうしても一人ひとりの個性を大切にする保育は難しくなり、「集団」としての保育が中心にならざるを得ません。
 「集団」のなかで「お利口」であることを求められて育った子どもたちは、大人が求めることには敏感に対応するのかもしれませんが、自分の気持ちをつかみ、表現していくということがどうしても弱くなるのではないでしょうか。
 保育の大規模化は、個人の尊厳とは離れた保育にならざるを得ないのではないか、と思わざるを得ません。
 また、鉄道の高架下の保育園も増えています。親にとって便利であることや、近隣から騒音の苦情がないことなどを売りにしていますが、そこには子どもを真ん中に置いた発想は見当たりません。子どもたちは自分が大切にされていると思って毎日を過ごせているでしょうか。自分も友だちも大切にする人に、育っていってくれるでしょうか。

■親たちの深刻な労働環境
 親たちが置かれている今の社会も大変です。
 正社員が減らされ、不安定雇用が拡大しています。社会の格差が拡大し、6人に1人が「貧困」と言われます。共働きをしなければ生活が出来ない家庭が増えています。
 保育園の需要が増え続けるのは、むしろ当然です。
 待機児童が増えているのは、社会全体の問題なのですから、社会全体で解決していかなければならない問題だと思います。
 しかし、現実には、待機児童解消の名の下に、お金をかけない安上がりの保育が一気に拡大し、とにかく詰め込めばいい、という政策がとられています。
 このような「詰め込み保育」政策の下で、子どもたち一人ひとりを大切にする保育など出来るはずがありません。子どもたちの安全も守られるか、とても心配です。
 保育士の処遇の改善も進んでいません。保育士不足が深刻とされる中で、抜本的な処遇改善が図られなければ、保育現場は回っていきません。
 保育士自身が「大切にされている」と感じながら働けなければ、保育園で子どもたちを大切にする保育など出来るはずもありません。
 保育士の専門性に見合った適切な処遇を実現していくことが急務です。

■壊される「保育の質」と保育に介入する国家
 加えて、一気に進んでいく「保育の無償化」も、世界的に「保育の無償化」は大きな潮流ですが、今日本で進められようとしている「無償化」は注意が必要です。
 認可外のいわゆるベビーホテルなどにもお金が出る、ということになったことは問題があるのではないかと思っています。
 最低基準を確保していない保育が拡大していったら、子どもたちの安全はどうなっていくのでしょうか。
 「儲け」を狙って多くの企業などが参入してくることになれば、「保育の質」は著しく後退します。利益を上げるために、人件費は最大限抑制するでしょうから、保育士の処遇もますます低下することでしょう。
 これまで積み重ねてきた保育の専門性自体も壊されてしまいかねません。
 もしかしたら、この国から「保育」が失われかねない、そんな危機感を抱いています。
 今まさに、「保育」は大きな瀬戸際に立たされている、と言わざるを得ません。
 さらに、この4月から施行された改正保育指針では、「国旗国歌に親しむ」ことが求められます。「国を愛する」という価値観を子どもたちに植え付け、子どもたちを社会の「駒」として育てていこうとしています。
 保育を巡る大きな流れが、「個人の尊厳」とは真逆の方向へと大きく進んでいることを、捉えておくことが必要だと思います。

■保育と憲法は岐路に立たされている。
 憲法改正の動きも加速しています。
 安倍首相の執念はかなりのものです。改憲については、決して諦めていないと思います。
 自民党の改憲草案には、『個人の尊厳」が削除され、ただの「人の尊厳」に変えられていることは注目すべきだと思います。
 一人ひとりを大切にする社会から、人を社会の駒として扱う社会へと転換しようとしている。それが自民党の国家観、人間観ではないか、と思います。
 安倍政権は、憲法9条の改憲を正面から行おうとしていますが、戦争はまさに、一人ひとりを大切にしない、人を社会の駒として扱うことそのものです。
 今、一人ひとりを大切にする社会を選ぶのか、子どもを、人を、社会の「駒」のように扱う社会を選ぶのか、が問われています。
 憲法を守り活かすことと、豊かな保育実践を積み重ねていくこととは、一人ひとりを大切にする社会を作っていく、ということで重なり合っています。まさに、保育実践は憲法実践なのだと思います。
 憲法も保育も岐路に立たされていますが、一番岐路に立たされているのは、子どもたちの未来そのものです。
 子どもたちの未来を守るためにこそ、豊かな保育実践を大切にし、憲法を守っていきたい、そう思っています。
 日々の保育実践の大切さをかみしめながら、目を社会に向け、子どもたちの未来のためにできる小さな保育運動と、小さな憲法運動を、ぜひ、職場から積み重ねていってほしい、そう思います。
 私自身も、弁護士として、また、子どもを持つ親として、子どもたちの未来のためにできることを、一つ一つ大事にしていきたいと思っています。


# by kahajime | 2018-07-22 11:55 | 保育